熊本県教育委員会 文字を大きく  文字を小さく  色を変える

前田 案山子(まえだ かがし)


                   前田 案山子(まえだ かがし)                                                      
                                                  
                                                    
  
                          民権運動家
                                                           
                   文政11年(1828年)4月 7日生まれ
                   明治37年(1904年)7月 20日 没  玉名市出身  故人

 
 【業績概要】
  玉名郡小天村(現玉名市)の豪農(郷士)の家に生まれ、槍術などの武芸に励み藩の御中小姓となり、九州諸藩に遊学する。維新後は、地租改正等に際して、海辺新地(干拓)の免租を強く主張するなど地元を代表した運動を行う。
明治7年私塾「蒙正館」を開設し、竹添進一郎などを講師として招聘し、若者の教育にあたり、九州各地からも遊学者を集める。明治10年の西南戦争の勃発直前に玉名周辺を管轄する第七大区の区長に任命され、地元住民保護の立場から中立を守る。その後、明治13年、民権運動に関わり高瀬で「山約水盟会」を結成し、多くの活動家と交わり、演説会などを開催する。明治15年九州改進党の結成に参画するなど政治への関わりを深め、明治23年の帝国議会の開設に際して行われた第一回衆議院議員選挙で当選し国政の場でも活躍した。この間、孫文、中江兆民、宮崎滔天などとも深い交流があり、多数の文人墨客が前田邸に逗留した。明治30年には、夏目漱石も訪れ、小説「草枕」の着想を得たことは有名である。
 ・嘉永 元年     九州・中国地方の諸藩に遊学
 ・明治 7年     地租改正に伴う地価評定について官吏と交渉
             小天に私塾「蒙正館」を開設
 ・明治10年     熊本県第七大区区長に任命される
 ・明治13年     山約水盟会を組織し、民権運動家などと交流
 ・明治15年     九州改進党秋期会で議長を務める
 ・明治20年     三大事件建白運動に際し熊本総代として上京
 ・明治23年     第一回衆議院議員選挙で当選
 ・明治24年    「条約改正」に関する建議案を提出
 ・明治25年    「海辺私築新地免祖延期請願書」を県へ提出
 ・明治26年    上記の新地について三十ヵ年の免租を実現
 
  
はじめに
  前田案山子は、夏目漱石が「草枕」を発表する2年前の明治37年7月20日に、77歳の波乱に満ちた生涯を閉じた。国会の三美髯といわれた一人で、見事な白髯の堂々たる写真が一枚だけ残っている。若い頃は槍の名手として名をなし、壮年期には、干拓地租税問題や自由民権運動に携わり人民のために、人民とともに闘った。国会議員を引退後の晩年は、文人墨客を友とし、地域の文化向上にも貢献した。
  
  武人として
  前田案山子、幼名一角、後に覚之助と称し、維新に際し案山子と名乗った。肥後国玉名郡小天村に生まれた。父前田惟鑑金吾は、もと田尻姓でその祖は一説に漢の高宗の後胤で、応神十五年に帰化したと伝える。それはともかく、戦国期国衆の中に「山上三名字」というのがあり、金峰山一帯を拠所とした牛島、内田、田尻の三豪族の中の一つが 田尻氏の祖であることは歴史上の事実である。1588(天正16)年の国衆一揆には加わらず、佐々成政から二百七十四町九反が恩賞として与えられている。田尻、前田の同族の経済的地盤はこの時に出来たと考えられる。
  さて、覚之助は幼時より腕力があり武芸の素養があったと言う。やがて同村下有所の福島寿兵衛の門に入り技を磨いた。ペリーが浦賀来航の前年1852(嘉永5)年、25歳の折、家督を相続し、藩主から御中小姓に召し出される。その年、槍の試合に勝って武名は大いに上った。次のような記事がある。「藩主庭園の道場に於て、草刈十郎といふ槍術の名士と試合を仰せつかり、一門家老以下諸奉行諸師範知名の藩士列座の中に見事勝利を得て喝采を博し、藩主より特に賞揚の辞を賜はった」( 『自治・産業・教化躍進日本』昭和12年・帝国連合通信社)と。その後明治維新までの足取りは詳かでない
 
  文人そして教育者として
  明治維新で案山子と改名した理由は何か。一本足で立つ不安定なかがしの状態が、武の終焉を感じとった自身の不安な心境に相通じたのであろうか。『衆議院議員候補者列伝一名帝国名士叢伝第二篇』(1890年5月、六法館刊)という本に次のような文章がある。「王政維新世態一変するに当り、氏時に四十、慨然剣を擲(なげ)うちて曰く絳灌(いかん)文なく随陸武なきは志士の恥る所、噫(ああ)、吾既に後れたりと雖(いえども)当(まさ)に以て文を学ばざるべからず、と乃(すなわち)儒生を聘して書を講じ、日夜切々孜々(しし)として怠たらず。未だ年を越えずして、粗々(ほぼ)経史に通ずるに至れり。是に於て氏大に濟民の志を興起し、民業を保護し、民権を拡張するを以て己れが任となす。故に世人初めて氏を指称して民権家となせり」と。この文でみると、明治維新になると直ちに武を捨てて、文の道を学んだとあり、時局に対する反応の速さが感じられる。しかも齢すでに40歳であった。人生50年と云われていた時代で、すでに晩年といってもよかった。そして四書五経の
儒教の教典をほぼ習得したというのだから驚く。覚之助は少年時代、武芸ばかりに打ち込み、文の勉強はしなかったと伝えられているので、このような晩学での達成度に驚くのである。そして、この文脈からすると、済民の志とは、横井小楠系統すなわち実学党系の儒者を家庭教師に選んだのではないかと思われる。ただ、この時点でいきなり民権家としたというのは言い過ぎで、維新後十年以上経ってからの民権家案山子との混同があるようである。
  自身学問を身につけた案山子は、早速子弟の教育にとりかかっている。明治5年に小学校令が出されていたが、小天村の小学校開校は明治7年であり、その開校に尽力した。この小学校は蒙正館と名づけられた私塾も併設していたらしい。学制発足当時は、師範学校創立が明治7年だから、正規の小学校訓導もいなかったし、従来の儒者が教師であった。小天の場合もそれであり、村塾との区別もなかったようである。しかし教師には後の帝国大学教授級の人もいたのである。以下、上村希美雄氏の「前田家の人々」( 『「草枕の里」を彩った人々』平成2年、天水町刊)から引用する。
 「その最初の仕事が明治7年(1874)に開かれる小天村塾――蒙正館の設立だった。最初近隣の伊倉町で私塾遜子斎を営んでいた竹添進一郎(旧藩校時習館の教師でのちに東大教授となる斯界の泰斗)によって開かれたこの村塾は、そのあとを継いだ志賀喬木(柳河藩校伝習館訓導。熊本の木下いそん塾で竹添と同門)によって一段と発展し、近村から蒙正館に来り学ぶ者、一時は数百名の多きにのぼったという(中川斎『玉名郡小天郷土史』)。案山子も前々年から飽託郡本山村の竹崎茶堂塾(日新堂)に預けていた長男下学や、甥の金儀を呼び戻すほどの力の入れようだった」と。
このような明治初期における小天の教育は、やがて自由民権運動の九州拠点としての小天の存在を約束することになるのである。さらに時代が下っても幾多の文化人を輩出する地盤ともなったのである。これらは前田案山子なしには考えられない。
  
   
人民のために
   明治10年、士族反乱の要素もあった西南戦争が起き、隣の横島村の友人池辺吉十郎らが烽起し、熊本隊を組織し西郷軍に参加した折、案山子は薩・官のどちらにも参加しなかった。これは実学党の動きと同一であった。個人的には明治維新の時にすでに、武士をきっぱり捨てていたからでもあったろう。この戦争では案山子の美談として二つのことが語り継がれている。その一つは、
 『躍進日本』に次のような記事がある。
 「明治10年西南の役の際は、玉名郡第七大區々長の職にありて、郷備金二万餘円を、議員神田幸七、佐々木清作等と共に之を保護し、幾度か賊将池辺吉十郎と面接して、その要求を斥け、或時は刺客福田抱一のために刺されんとする危難のうちにも、事理のためには、その処理を誤ることがなかった」と。また『小天郷土史』では、
  「反軍将杉野一三、城一郎、深野一三等しばしば案山子ニ迫マリ、金貨ヲ反軍ニ提供センコトヲ以テス。案山子之ヲ拒絶
ス。兵力ヲ以テ之ヲ強ユル。再三案山子之ニ応ゼズ。既ニ大事ヲ惹起セントス。反軍ノ総大将池辺吉十郎、書ヲ案山子ニ致シテ、面談ヲ求ム。〈御職務ノ御繁忙之程拝察致候。変動ニ就テハ、人民保護之儀、極要務ニ候処ニ、三大区ハ御同勤申談、既ニ各小区ニ鎮撫兵ヲ以テ巡邏致サセ、御内家ヨリノ御助力ニテ窮民救助方モ相整ヒ、斬々安堵ノ場ニ相成申候。右保護辺ノ儀、夫々御処置相整居申候トハ存候得共、至急御面談仕度儀間、此状着次第、春日村熊本隊本陣迄御出被下度、此段得御意申候也。
  三月八日                                                池辺吉十郎 印
  前田案山子様                                                       〉」と
記し、「池辺ノ要談ハ、彼ノ郷備金ヲ軍用ニ提供セシムルニアリテ、県内各郷ノ備金ハ各区長ニ於テ、皆本隊ニ預ケ入レタリ。貴大区ノミ未ダ其運ニ至ラザルヲ以テ、此際速ニ持参セラレ度トノ要旨」であったが案山子はそれを拒否し、私費を投じて郷備金の保管と警護にあたったと記している。
  明治9年の神風連の変後就任した富岡敬明県令は、前田案山子を熊本県第七大区(玉名郡南半分)区長に任命していた。この西南戦争時に郷備金(人民の共有金)を案山子が身を挺して守ったというのは、小天に保管していた第七大区の二万円餘であった。この郷備金については、県が吸い上げようとした経緯がすでに明治十年初頭にあり、人民の反対申立てを案山子が県当局に取り次いだこともあった。
  もう一つの美談は、郷備金のことで案山子を脅迫した池辺吉十郎の息子の吉太郎(のちの三山)を、西南戦争の戦火から守り、自宅に避難させていたということである。この池辺三山は後に朝日新聞の主筆となり、これも後の夏目漱石を朝日に招き入れることになる。前田案山子をめぐる不思議な縁でもある。
  西南戦争が結着すると、明治8年に始められた熊本県内の地租改正問題が再燃した。前田案山子は、そのころすでに小天村惣代として、地価を低く評定するよう県役人と交渉している。明治11年になると、新政府は海面干拓地(海辺私築新地)
を課税対象にすると通告してきた。そこで地先人民(耕作者)を代表して案山子は立ち上るのである。
  海面埋立地に関して、築造主(細川)は資金を出し、地先人民(耕作者)は築造の労力を出した協同関係にある。
地先人民は、築造主に徳米を納め、代わりに地主としてその新地の地所費・売買・譲与・質入書入の権利を持っている。だから地租の徴収権は築造主にあって政府にはないと、前田案山子は主張した。なお藩政時代、細川藩は玉名・八代・葦北・下益城・宇土・飽田などの海面埋立地を永世無税保護としていた。そしてこの問題は細川家と案山子との対立にもなり、明治25・6年まで続くことになる。明治26年11月に、六郡八十三ヶ村の三十ヶ年免租を、案山子の働きで獲得することになるのである。
  干拓地の租税問題で常に人民の先頭に立って闘ってきた案山子であったが、その間に自由民権運動が大きな波となって押し寄せてきたのであった。もちろん干拓地農民の先頭に立ってきたことと無関係ではなかった。
  明治7年高知において板垣退助らにより創設された立志社は、翌年全国各地民権政社に呼びかけ愛国社を設立した。それが自然消滅し、明治11年再興した。翌12年にその第二回大阪大会が持たれ、熊本から案山子の長男下学、月田道春、高橋長秋が出席している。ということは、その時点ですでに小天の地に、自由民権の動きがかなり高揚していたことを証明している。明治13年になると前田案山子が中心となって山約水盟会という自由民権結社が設立されている。これは全国に先駆けた運動であった。『小天郷土史』は伝えている。
  「明治十三年頃より(案山子は)自由民権を主張し、盛に演説会を開き、山約水盟会なるものを組織し、高瀬町に事務所を置き、国友重章、立花小一郎、小山左司馬、大塚水哉、本田周一郎、広田止善、河原儀太郎、下村充信、前田下学、前田金儀、田尻準次等を会員として、二月十五日高瀬町光蓮寺に於て演説会を開く。此日会するもの佐々友房、高橋長秋、下村充信、池松豊記、国友重章、友成正之、西大次郎、田尻準次、前田下学、前田金儀其他三池有志無慮七十有余名なり」
と。
  このメンバーの中で中心的役割りを果す前田下学、前田金儀、田尻準次は、かつて案山子が創立した蒙正館で、案山子の薫陶を受けた子弟たちであった。また下学と金儀は竹崎茶堂の日新堂で学び、下学は更にジェーンズの熊本洋学校にも学んでいた。しかし山約水盟会は一年余りで姿を消すことになった。ただこれを機に小天では自由民権の演説会は続けられ、自由民権運動の別天地だったという。
  明治15年になると「九州の志士大に熊本に会し、九州改進党を組織し、同年八月再び長崎に会するや氏其の議長に推され、17年改進党を解き九州新(ママ)睦会となすに至り氏又た実に其領袖たり」(前出『衆議院議員候補者列伝』)とある。そしてこの年10月26日に熊本入りした女性民権家岸田俊子が、11月28日小天の前田案山子別邸に現われるのである。その夜早速別邸では懇談会が開かれ、前座として案山子の三女ツチ(のち宮崎滔天夫人)が「学問ヲ勧ム」と題して演説をした。時にツチ12歳であった。翌29日は小天神社で演説会が開かれた。村民五百余名が出席したという。ちなみに当時の小天村戸数は六百二十戸だった。岸田俊子は三十日も演説会を行い、翌日小天を最後に三十七日に及ぶ熊本遊説を後にしたのである。前田案山子宛の岸田俊子(湘畑外史)の漢詩が残されている。
    妾去浪華家万里
    小天君住水之隈
    深春香識梅花夢
    不害黄鴬驚破来
    為前田君
   湘畑外史
  岸田俊子が熊本を去ると、入れ替えに中江篤介(兆民)が酒井雄三郎を連れて熊本入りする。彼が小天を訪れたのは年も迫まった12月28日であり、三、四日滞在した。なお彼等が開校したばかりの徳富蘇峰の民権私塾大江義塾を訪ねたかどうか詳かでない。
  中江兆民の小天での動向を伝える資料に、田尻於莵来馬(おとくま)の『思ひ出の記』がある。五十年ほど前の回想録だから記憶違いの箇所もあるようだが、当時の雰囲気は十分に伝えている。
 「(兆民)一行の滞在中小天神社で政談演説会が開かれた(中略)自由民権論の演説でしかも弁士は中江篤介、大江卓など揃ひも揃ひし天下の名士たちの大演説で、実際田舎の地で到底願ふても出来ぬ千載一遇とでも云ふべき事であったので、其評判の盛なりしことは想像に余りあるのである。案山子さんは、余と貞太郎君にも演説をせよと云はれた(中略)会場へ着いた時は既に暮色蒼然たる頃であったが、聴衆は早くも境内に充満して(中略)開会時刻が来たので下学さんが開会の辞を述べて一番に貞太郎君が出た(後略)」と。会場は小天神社であったようで、夕刻から始まっている。前座として少年が演壇に立っている。平井貞太郎(案山子の長女シゲの長男)当時11歳がトップバッターで「可戒怠惰」と題して演説し、次に田尻於莵来馬(当時12歳)が、ツチと同題の「学問ヲ勧ム」と題して演説をした。なお『思ひ出の記』によると、「少しばかり書き直して草稿をこしらへ稽古をした」とツチがやったのと少し違えて喋ったことがうかがえる。それにしても、12、3歳の少年少女が、自由民権思想について喋るとは驚きであり、案山子の教育のほども知られるのである。
  演説会の取りしきりは前田下学がやったようだが、兆民の世話は田尻準次がやったのではないかと考えられる。というのは、「転轆々為田尻君中篤」という豪宕な書が田尻家に残されているからである。転轆々の意は、やがて世は廻って来て、自由な民権の世になるだろうといった希望への期待がこめられている。しかし14年政変を経て自由民権運動は下火になっていく。

   
政治的活動
  干拓地問題にしろ自由民権運動にしろ、前田案山子の政治家的手腕は十分窺い知り得たわけだが、いわゆる政治家としての案山子にも言及しなければならない。
  明治20年、案山子は現在でも定年退職の60歳になっていた。にもかかわらず彼は「条約改正」に対する反対運動の先頭に立った。前田案山子、下学親子は熊本県から選ばれ上京し、伊藤総理大臣を初め樞密院議官諸氏の邸を廻って陳情している。11月15日には東京鴎遊館で開かれた有志大懇親会に、熊本の同志たち――長塩亥太郎、高田彦太郎、石浦平三郎、植田耕太郎、木下四郎、前田下学、栗崎高俊、赤星龍雄、井上敬二郎とともに出席。12月26日に発令された「保安条例」で皇居外三里の地に追放され帰郷した。翌年も、柳川や大阪や山鹿での親睦会(懇親会)に出席し、主導者となり議長をつとめたりしている。
  明治22年2月11日大日本帝国憲法が発布されると、翌年の衆議院議員選挙が意識され、地方政界も離合集散が繰り返され、大同団結も中央で分裂したが、あくまで大同団結にこだわった案山子は、これまで共に闘ってきた相愛社系や実学派の盟友たちと袂を分つことにもなった。そして、これまで敵対関係にあった国権党と手を結ぶことになる。
  明治23年7月1日、第一回衆議院議員選挙が行われた。案山子は大同団結を称え大同派としながらも、国権党と連動し、熊本区を中心とする第一区から立候補し当選した。定員二名で第一位は佐々友房(1328票) 第二位前田案山子(1271票)
であった。
  国会議員となった案山子は、11月20日には、佐々友房、木下助之、古荘嘉門、頭山満らと国民自由党を結成した。第一回通常帝国議会で、案山子は議員第一部々長に選出された。翌二十四年の第二回通常帝国議会では議院第三部々長に選出された。しかし明治25年の第二回衆議院議員選挙には立候補しなかった。65歳はもう隠居の年齢であった。ただ干拓問題はまだ尾を曳いており、しばらくはその委員などにされ上京もしている。
  
  
夏目漱石とのかかわり
  漱石が山川信次郎に誘われて、小天の前田案山子別邸を訪れたのは、明治30年の暮れであった。懸案の海辺新地免租延期の件も、明治26年11月2日に結着を見ていた。明治27、8年の日清戦争時の案山子については詳かでない。漱石の「草枕」に出てくる孫の久一が出征するのは日露戦争時になっているが、あるいは案山子が日清戦争に出征していった孫の話を漱石に語ったのかも知れない。「草枕」では、全く世を超越した世捨て人の老人として描かれている、そのモデルが案山子であろうが、実際の案山子はまだまだ意気盛んだったに違いない。漱石が翌年正月四日ごろ案山子別邸を去った二十日ほど後に、案山子は妾(しょう)はなとの間の第三子利鎌をもうけているのである。この利鎌は成長して、異母姉なるツナに連れられて東京の漱石宅に現われるのであった。漱石が大正5年12月9日に亡くなった後、弟子たちは九日会と称し漱石の事蹟を受け継いでいくが、そのメンバーの一人に利鎌がいて、漱石の長女筆子の夫となる松岡譲に可愛がられることになる。そして利鎌が腸チブスで突然亡くなると、松岡譲は彼の遺稿論文集『宗教的人間』を岩波書店から出版している。「草枕」
のヒロイン那美さんのモデルとなった前田ツナ(案山子の二女)は、利鎌を介して晩年の漱石と再会したのである。
  利鎌出現のあとの話はともかくとして、漱石が出会った前田案山子は、確かに隠居の身で骨董趣味に明け暮れていたかも知れなかったが、単なる世捨て人ではなかった。ただ「草枕」の中では全くの世捨て人である。それはこの小説が、非人情の世界、すなわち俗世間の煩雑さに、あるいは恋も含めた人間関係に無頓着な世界を描くことにその主題が置かれていたからである。それはさながら桃源郷を描くことであり、そこに重要な脇役としての御隠居さんが必要だったのである。
  最晩年の案山子は、決して幸福ではなかったらしい。複雑な家族構成や遺産相続を巡る親子兄弟の争い、長年の政治
運動での財産の喪失等、かつての華かさはなくなっていた。漱石が訪れたころはまだましだったにしろ、「草枕」に描かれた小天はまさに桃源郷であり、豪荘な邸宅をもつ裕福な老隠居として、浮世離れした夢の世界の住人としての案山子像に救われているような気がしてならない。前田案山子別邸があって漱石の「草枕」が生まれ、「草枕」によって晩年の案山子は救われている。
 
    参考文献
 『熊本新聞』                             明治15年12月5日、28日
 『衆議院議員候補者列伝一名帝国名士叢伝第二篇』 明治23年 5月       六法館 刊
 「思い出の記 上巻」 田尻於莵来馬 記述        昭和 5年 6月       自筆版
  『自治・産業・教化躍進日本』                                       昭和12年           帝国連合通信社 刊
  『玉名郡小天郷土史』 中川斎編著                               昭和28年  4月       小天村 刊
 『草枕の里を彩った人々』                    平成  2年10月       天水町 刊
 『天水町史』                             平成17年11月       天水町  刊






新規ウィンドウマークこのマークの付いたリンクは新しいウィンドウが開きます。
PDF形式のデータをご覧になるためには、Adobe Readerが必要です。
お持ちでない方は、右のアイコンをクリックしてダウンロードしてください。(無料)

このホームページで使用されている画像およびテキストを、無断で転載することを禁じます。

Copyright (c) Kumamoto Prefectural Board of Education All right reserved.