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早野 義章(はやの ぎしょう)


                早野 義章(はやの ぎしょう)
               
                                                           
                         海苔養殖先駆者            
                                文久2年(1862年)2月12日生まれ                                
                       昭和7年(1932年)1月 4日没  玉名市出身  故人                                          
 【業績概要】
  明治初期において海苔養殖は、一部で導入され試みられるものの、豊凶の振れが激しく産業として成り立つものではなかった。その海苔養殖業を九州の有明海で最初に定着・普及させた指導者が早野義章氏である。
  氏は東京での遊学の後、18歳で大浜小学校に奉職し、その六年後には校長となる。当時の大浜町は、水田単作地帯で少数の地主が独占し、小作農民の生活は苦しく、教え子達の家庭も例外ではなかった。そうした村民を貧窮から救うために海苔養殖に目をつけた。しかし、青年校長の言葉に耳を傾ける者もなく、自ら手本を示そうと学校を退職し、私財を投じて海苔養殖の推進に専念することとした。地域振興のために様々な研究を進めるとともに、県の水産試験場支場誘致に成功。その後、大浜横島海苔水産組合を組織した。大正に入り、ようやく安定した海苔養殖に成功した。
 「玉名海苔」は、県下はもちろんのこと、東京・大阪へと出荷され注目を集めることとなり、郷土の産業振興に大いに貢献。ひいては、郷土のみならず、この海苔養殖の技術をもった門下生等が、他県の魚民に指導し有明海のみならず、岡山・愛媛をはじめ朝鮮半島までも海苔養殖技術を広めることとなり、氏は現在「海苔養殖の父」として尊敬されている。

   ・明治13年       大浜小学校着任。                                                                    
   ・明治27年       大浜小学校長退職。                                                                  
   ・明治34年       県の水産試験場である「養殖支場」の誘致に成功                                        
  ・明治35年       海苔の養殖に成功する。 「玉名海苔」として、東京・大阪へと出荷し、注目を集める      
   ・明治36年        第四回熊本県水産組合連合水産品評会で一等受賞     大浜町漁業組合の理事、後に組合長   
   ・明治39年        皇太子殿下のお買いあげの栄を賜る。                                                  
   ・明治40年        浜横島海苔水産組合設立(組合長に就任)                                              
   ・大正10年        水産上の功労者として熊本県知事から表彰                                              
  ・昭和 7年        永眠                                                                                
   ・昭和13年         関係者により、大浜町に「早野義章感恩碑」建立                                         
                                                                                     


                                          

      自然に畏怖し   海苔養殖に賭けた男                                                                                                                                        
                              玉名市文化財保護委員 前川 清一       
  はじめに
  早野義章は、菊池川(高瀬川)左岸下流に位置する大浜町に文久2年(1862)2月12日、父大七、母マスの三男として生まれた。父大七は、弘化元年(1844)に一領一疋、慶応元年(1865)には留守居御番方席となった。
  義章の生まれたころの大浜町は、高瀬港の外港で廻船問屋の立ち並ぶ商業の発達した港町として繁栄していた。早野家も主に綿布を商いとする「綿屋」の屋号で知られた家である。対岸のやや下流に位置する滑石の晒とともに多くの帆船が港を埋め尽くしていた。
   晒には、藩の米山床、俵ころがし、御番所、遠見櫓、高燈籠などの施設が立ち並び、なかでも高燈籠は菊池川川尻の賑わいの象徴であった。
  
 就学時代
 義章の就学時代は、不明な点が多い。熊本日日新聞昭和43年7月18日の「城北百年の人物誌」によれば、伊倉南方に開設された私塾「遜志齋」で学んだとされる。私塾を経営した人物は、竹添進一郎(熊本県近代文化功労者昭和29年度顕彰者)といい井井(せいせい)と号した。井井は、天草出身で15歳の時に熊本の木下いそん塾に入門、22歳で細川藩の士分として召し出されて藩校時習館の訓導を勤めた。27歳の時には、藩命で江戸、京都などを訪ねたが、江戸では勝海舟に一目置かれたとされる。井井は、後に明治政府で活躍後、東京帝国大学で教授等を務めるなど、我が国に多大な貢献をなした傑人である。
   明治4年(1871)の廃藩置県後、城下瀬戸坂に私塾を開いていたところを、伊倉出身の松尾又男が氏の貧困を見るに偲びず、三顧の礼を持って伊倉の地へ誘ったのだ。松尾の計らいにより、鍛冶屋町住吉の徳永熊太屋敷内に遜志齋という塾を開いた。主な教科は、漢学、算術、筆道などであった。
井井は、伊倉に招かれた当時を次のような漢詩に残している。
「松尾又男余経営頗費心力営巣巧鵲往来頻雨々風々幾苦辛白笑拙鳩謀不拙酋綢繆○頼他人」
漢詩の中で、松尾への感謝の意を表すとともに、安住の地を得た喜びを記し、自らは採るに足らないものであるが、門戸を開き人のために役に立ちたいと抱負を詠んでいる。
   井井は高徳で博識な人格者であり、また、一時も書物を離さず、政治にも強い関心を寄せていた。遜志齋には、師を慕って郷里の天草や城下からも門弟が詰めかけた。
   明治6年に天草から母を呼び寄せ平穏な生活を送っていたが、翌年2月に母、同年6月に長女との死別があり、さらに7月 16日の台風で塾舎が倒壊してしまった。井井の心境は察するに余りある。その後、心機一転、意を決して上京したが、その後の活躍は周知のとおりである。
   さて、義章が遜志齋で学んだ期間は不明だが、このような指導者の下で多感な少年期を過ごしたことは、その後の義章の人生に多大な影響を与えたものであろう。義章の生活様式は、毎日早起きして菊池川の水で身を清め神仏を礼拝した。この生活様式は、晩年に至るまで一貫したものであった。
   その後、義章は東京へ遊学したと伝える。遜志齋が廃塾された後、井井の上京が契機となったのであろう。
  
     教職時代 
  明治13年、義章18歳の時に大浜小学校訓導として教壇に立ち、さらに明治18年2月、若干23歳の若さで6代目学校長に就任した。
  ところで、海運で栄えた大浜町は、幼少時のような賑わいは無く、凋落の傾向が著しかった。特に、明治24年4月、鉄道が高瀬(現玉名駅)まで開通すると、これまで廻船を利用していた輸送手段は次第に鉄道と競合し始め、海運業で栄えた河口の港町の将来に、暗い影を落とし始めていた。
  また、児童の教育に携わる傍ら、義章の胸を痛めたのは農民の貧困であった。農業を如何にすれば生活を豊かにできるのか、農家を視察するとともに、その方策を検討したりした。しかしながら、農民の収入を増やすための方策に腐心するも、小作農が多く生活改善の進展は思うような成果を上げることができなかった。
  義章のこのような行いが、後に大浜町農会長(『熊本県之水産』大正8年刊)に推されることに繋がったのであろう。
  義章の幼いころに大浜町在住の稲田新吾が、大浜地先海面にヒビ(海苔の胞子・幼生を付着させるために海中に突き立てる竹や木など)による海苔養殖を行う出来事があった。義章は、先人の養殖事業について調べ自らも海苔の養殖を試してみようと思い立った。海苔の着生する時期を見据え、明治27年11月、後進に道を譲ることにした。
  この間、教職にあること14年、在職期間は児童の教育に心血を注いだことは言うまでもない。義章は敬虔な信仰心に基づき、学校にあっては、その信条とするところを児童・教師に向けて訓じ、外に在っては自らの行動で示し、多くの住民の尊崇と信頼を受けた。
  
  海苔養殖への道
  海苔は、「運草」あるいは「お陽気草」とも言い、年変異が大きい海産物である。
  大浜地先の海面で海苔養殖に先鞭をつけたのは、大庄屋福島正之助とされる。『歴史玉名』28号には、義章の甥に当たる村上廷太への聞き書きがあり次のように記す。
 「旧藩時代伊倉大庄屋福島正之助が参勤交代の節、浅草海苔を見て帰り、大浜に来て稲田新吾に話て、彼を使用人として海苔の試験をした。然し製品は商品とならず、会所をやめてから彼自身としてやった。その後、晒で羽瀬に天然についたものをとって抄いたものもあった。」とある。
  大庄屋福島正之助とは、玉名郡小天村出身で後に福島万平と名乗る。『福島家家系記』によると、「明治7年大浜ニ寄留シ、伊倉町木下助之ト共同シテ同所ニ於テ四男潔ヲ携エ海苔養殖ニ着手ス、製苔数数万枚ニ至ル、之ニ従事スルコト殆ト二カ年、創業ノ際困苦嘗メ、四男潔及南関郷ヨリ笹渕甚四郎ナルモノヲ招キ、之等ヲ主任トシ、笹渕ヲ東京大森ニ派シテ、伝習セシメテ、其製品大森製ニ譲ラズ、頗ル好成績ヲ得タルモ故アリテ中止ス。」と記す。
  このことから、明治7年以前に大浜出身の稲田新吾が海苔養殖を行ったことが知られるが、義章が実際に見聞し強く印象に残った出来事として記憶されたものであろう。
  義章は11月に退職すると、私財をなげ打ってこれまで準備してきた海苔の養殖に着手した。早速女竹を伐採して、大浜地先の天然海苔が発生した周辺に女竹を突き立てて行った。しかし、義章の期待とは裏腹に、その結果は散々なものとなった。
  課題は、幾つもあった。女竹を密集して立てたために、潮流を阻害するのみならず、軟泥が竹の根元に堆積したのだ。また、女竹を立てた時期が11月と遅れたことが致命的であった。
  先人稲田の養殖を再検討すると、竹の伐採は8月上旬を良しとし、竹の脂肪分や笹を除去するために、川に漬けて葉を腐らし油成分を除くことが大切であることが判明した。
  しかし、その後も義章の試行錯誤の取り組みの甲斐もなく、思うような成果を得ることが出来なかった。
  明治33年4月になると、熊本県水産試験場が天草登立村に開設された。義章は、これを契機に、大浜地先の海面における海苔養殖を説くとともに、出先機関の誘致に奔走した。
  
  県水産試験場の設置と海苔養殖への取り組み
  義章直筆の「海苔養殖沿革及び成績表」(以下「沿革」)が明治43年に作成されているが、これにより、義章の取り組みをある程度、辿ることができる。
  まず、明治34年には、熊本県水産試験場から養殖主任吉川淳技手が菊池川河口に派遣されている。吉川技手は、義章の案内の下に現地視察を行い天然海苔の発生状況や、同地域の海苔生産の取り組みなどを調査した。調査結果を受けて、10月に大浜地先の海面で海苔養殖に関する24の実験を行った。その結果は、「明治34年度熊本県水産試験場業務功程報告」に纏められている。
  同書には、「県下菊池河口一帯ノ地、即チ玉名郡滑石村、大濱町、横島村地先海面ニ於テハ、従来年ニ依リテ海中ニ点在スル竹波瀬等ニ、海苔ノ着生スルコトアレドモ、漁民ノ多クハ冬季菊池川上流ノ海苔、激寒ノ為流レ来リテ、茲ニ纏着スルモノナリト信シ、従テ是ヲ養殖シテ製造スルノ法ヲ知ラズ、唯沿岸ノ遊魚者若クハ婦女子カ僅カニ自家用トシテ摘採スルニ過キサリシカ、今ヨリ七・八年前初メテ此地先ニ於テ之カ養育ヲ企テ、ヒビ若干ヲ建設セシモノアリト雖モ、其方法完カラヅ遂ニ効果ヲ得ズシテ放擲シ、後亦海苔養殖口ニスルモノナシ、全ク断絶ニ帰シ以テ今日ニ及ベリ、茲ニ本場創設ニ際シ沿岸各地調査ノ結果、此地ニ於ル海苔養殖ノ等閑ニ附スベカラザリヲ知リ、先ツ如何ナル品質ノモノカ着生スベキヤ。
又将来果シテ新養殖場トシテ一般当業者ヲ奨励シ、如何ナル程度マデ普及セシメ得ベキヤ明ニセントスルヲ目的トシ、海苔ノ発生区域ニ関スルヒビ立地適否、ヒビ材料並ニ建設法ノ得失ニ就キ之カ試験ニ着手シ、三十四年十月二十五日付着材料トシテ、女竹、楢ノ二種ヲ撰ビ、第一法ヨリ第四法ニ至ル四種ノヒビノ立法ヲ実施セシニ、其付着良好ニシテ、伸長亦宜シク、之ヲ抄製セシニ品質薄クシテ柔軟光輝アル濃黒紫色ヲ帯ヒ、香味頗ル佳良、将来属望スルニ足ルベキ極メテ好適地タルヲ知リ、ヒビ材用並ニ建設法ノ得失ヲ明ニシ、今後拠ルベキ重要ナルタスウノ事項ヲ確メタリ」と記す。
  なお、この報告書の中で、義章が取り組んだ海苔養殖については「今ヨリ七・八年前初メテ此地先ニ於テ之カ養育ヲ企テ、ヒビ若干ヲ建設セシモノアリ」とする。また、「品質薄クシテ柔軟光輝アル濃黒紫色ヲ帯ヒ、香味頗ル佳良、将来属望スルニ足ルベキ極メテ好適地タルヲ知リ」とし、将来有望なることを記している。
  ところで、明治34年9月、早野家の長兄傳蔵の隠居にともない、義章は早野家の当主となった。集散問屋「綿屋」としてかって大阪・中国地方などとの交易で繁栄したが、時は移り五百俵取りの地主の地位に甘んじていた。
  義章の水産試験場誘致運動は、吉川技手の報告結果もあって明治35年、横島村十番に養殖支場として実を結んだ。設置目的は、海苔養殖や藻類、魚介類の研究を主眼としたものである。
  養殖支場では、早速、海苔製造試験を行った。報告書によると「東京流ノ方法ニヨリ直接当業者ヲ指導センガ為ニ実業家ノ子弟ヲ募リテ之カ伝習ヲ兼、摘採、洗滌、選別、叩、渡製、乾燥、剥キ方、結束等ノ数項ニ就キ各種ノ試験ヲ実施スルコトトナシ、器具ノ全部ハ東京付近ニテ用イルモノニ倣」とある。
  また、この年に生産された海苔は、東京へ出荷されるに至った。報告書は、「向後当地方海面ニ於ケル主ナル産業ノ一トシテ、数フルニ足ルベク前途頗ル属望ノ現象ヲ呈シ、付近町村ノ当事者ハ本場ノ勧奨ニヨリ来期ヲ待テ起業セントスルモノ多キニ至レリ」と記す。
  明治36年3月「沿革」によると、徳久熊本県知事が養殖支場を訪ねてきた、伝習作業を視察され、自らも海苔抄製を体験するとともに、有志や伝習生に向かって海苔養殖事業へ取り組むよう推奨された。
  養殖支場は、明治36年になると養殖実験とともに、東京・大阪市場へ海苔販売の成功があった。一方、義章等の嘆願もあり、海苔養殖事業の民業化の許可が出された。義章は教え子を始め、先頭に立って大浜町・横島村の住民に対して海苔養殖事業への希望者を募って回った。
  前出の報告書によると、274名の事業者に対して海面204900坪余を確保して始められたことが知られる。義章の喜びはいかばかりであったろうか。義章が志した事業化がここに実現したのだ。
  ところで、県水産試験場は明治37年度から、横島の養殖支場に於いて海苔養殖製造の伝習を開始している。
伝習生を集めるために、義章を筆頭に甥の村上廷太、横島村雄志の志田代安平らが熱心に地元民を勧誘して回った。また、一方で海苔養殖の民業への移転について県知事宛へ嘆願書を提出した。
  初年度の伝習生は、義章等の呼びかけもあり、教え子等男女50名が伝習を終了している。翌38年度には、東京浅草海苔専門の教師を招聘し、会場を大浜町に移し男女69名が伝習を終了した。
  一方、民業化初年度の海苔生育状況は、暖冬のため良好とは言えなかった。さらに、明治38年度になると海苔の芽腐れが広がり、海苔の出来は最悪の状況を呈し、まさに運草であることを如実に示した。このような状況から、海苔養殖業から撤退する者も現われてきた。義章は、根気よく海苔養殖への利点を説いて回り、事業への継続をお願いした。
  
  大浜横島海苔水産組合の結成と活動
  義章は、海苔養殖事業の効率化・組織化を図ることにした。甥の村上廷太をはじめ13名の連名で「大浜横島海苔水産組合設置発起認可申請書」を明治39年2月1日付けで熊本県知事に申請した。業務内容は漁業(海苔養殖)、製造業(海苔製造業及缶詰製造業)、販売業(海苔販売業)の三点を上げている。
  これに対して熊本県から同年10月18日付けで組合設置発起の件について許可が出された。これを受けて、翌年1月26日に組合設置の申請を出し、同年7月4日付けで許可された。
  同組合の組合長は、発起人代表者の義章がなり、副組合長は甥の村上廷太と横島村の田代保尹が就任した。
  ところで、組合を立ち上げる途中の明治40年1月22日、玉名郡長洲町で熊本県水産組合連合水産品評会が開催され、義章は来賓総代として祝辞を述べている。
  また、同月29日には、品評会の褒章授与式が行われたが、義章率いる大浜・横島の人々の海苔部門の受賞者が相次いだ。海苔部門の一等を義章が受賞し、二等には義章の甥で片腕として共に辛酸を舐めてきた村上廷太と大浜町の西川富太郎、松本章吉の3名が受賞した。三等は8名のうち大浜・横島の出品者が7名を占めた。大浜・横島以外では、八代郡鏡の一名が三等を受賞したに過ぎなかった。幸先の良い受賞は、組合の発足に一層の弾みをつけたに違いない。
  明治40年1月23日の「九州日日新聞」の記事によれば、「玉名苔の好評」と銘打たれた記事に「玉名郡大浜横島水産組合の製造に係る昨年中の海苔産額は約四千円に及びたるが、同組合員は目下273名あり、本年は、東京より技師を聘して去る1月7日より其製造貯蔵等の練習を開始し、今秋長崎市に開催せらる関西連合水産品評会に出品する由なるが、其品質の優良なる事、東京の技師も一驚を喫し居れる有様にして価格亦比較的に低廉なれば益々好評を博し各方面の需要少なからずと云ふ」とある。
  なお、長崎市で行われた第二回関西九州連合水産共進会については、海苔部門で二等賞となるとともに、皇太子殿下のお買い上げの栄誉を賜っている。
  このような好成績を収めた背景には、熊本県水産試験場主催の海苔養殖伝習による技術習得の成果と思われる。この伝習については、明治39年度準備段階の大浜横島海苔生産組合主催で行われた。義章の尽力によるもので、浅草海苔の専門教師である松本栄次郎を招聘し、伝習生65名を養成した。この伝習を終了した者の中には、岡山県や愛媛県から、水産試験場の技術員として採用された者や、朝鮮国からの採用依頼により雇われるなど、国外へも技術伝播がなされているが、海外における日本式海苔製法伝播の最初の出来事であった。(『海苔の歴史』では、明治42年広島県江波出身の恵柳某が朝鮮国全南の長興郡での養殖を最初と推測。)
  また、明治40年度、大浜横島海苔生産組合が認可され、伝習は正式に組合主催となった。養殖製造部に於いては松本栄次郎を、海苔缶詰製造部には古川九満次を招聘しての伝習であり、58名が伝習を終了している。
  以後、毎年、伝習のために講師の招聘を行いない、品質の向上等に努めた。
義章は、「沿革」の最後に「創業以来養殖事業の発展発達し、産額は年々数倍の増収を得、前途益々有望にして、有明海の沿岸は、皆海苔養殖地たるに至らし、又東京湾内における海苔産額と匹敵するは、近き将来に有るならんと信ず。」と結んでいる。
  
  義章と干拓事業
  義章を語るに忘れてはならないことは、干拓事業に於いても多大なる貢献をなしていることだ。
  当時の干拓事業は、大浜や横島の地先に於いてたび重なる干拓が進展した地域である。特に明治20年代は、大規模な干拓事業がなされた時期であった。
  義章が大浜小学校を退職した明治27年は、大浜町の末広開の完成が間近に迫っていた。また、隣村の横島村では、明治26年に完成した明丑開・明豊開に続き、大豊開の干拓工事が進められていた。さらに、隣県の福岡県大牟田市の地先では、横島村の加藤小文太、村上重平、中山幹基の3名により有明開の着工がなされていた。
   義章は、福岡県柳川の明治開(明治31年竣工)や長栄開(大正元年竣工)造成に献身的な支援を行なった。
   また、地元大浜町においても、県へ提出した「海面埋立成功地御下渡願」によると、明治40年6月10日付けで義章はじめ 14名の有志により烏帽子開と末広開の西側に位置する有明開の埋め立てを申請し、翌年1月18日に許可が出され、大正元年に完成を見ている。しかし、干拓地は、海との闘いである。大正3年8月25日、有明海沿岸部の干拓地は、高潮により堤防決壊が相次いだ。『熊本県潮害誌』によると、義章等が開いた有明干拓地の堤防も午前11時過ぎに二十間の堤防決壊、五百間の損傷を受け、1.5メートルの潮水で冠水している。その損害は、二千六百八十二円と記す。
  義章は、自らも被害者でありながら、潮害被災地に対し十二円の寄付をする一方、義章が干拓した福岡県柳川の明治・長栄開の両開においても復旧に力を尽くした。
  福岡県柳川市の明治開・長栄開について『両開のあゆみ 両開小学校誌』によると「干拓工事の監督をしたのが早野氏である。早野氏は熊本県横島(正しくは大浜)の人であった。監督さんが人力車に乗って事務所に来る途中で、村の子供達は、道端に集まって御礼をした。すると監督さんは、五〇銭銀貨を与えた」と、地元の語り草となったのである。また、同書には「家族総出で一日一円の収入があり、干拓様々であった。」とも記す。
  明治開と長栄開の境界堤防上に、小さな石祠がある。かつて義章が干拓事業の監督者であったころの干拓事務所の傍に建てられたものとで、大正3年の潮害による復旧作業の際に出土した海童神を、義章が大切に祀ったものである。(10年ほど前に圃場整備が行われており、石祠は数度の現地調査を行うも未確認)
  また、明治開には「大浜」の地名が残る。義章の出身地と同じ地名であり関連があるものと思われる。さらに、干拓作業で唄われた労働歌「がたいね節」が唄い継がれているが、同地では熊本県横島の「潟いない節」が伝わったものという。
  大正4年5月6日には「其筋ヨリ」として、両開村長(現福岡県柳川市)を通して銀杯が下賜されている。その折の「祝詞」は、次のとおりである。
   
  祝 詞
  夫レ功ノ成ル成ルノ日ニ成ルニアラズ、必ズ其ノ依テ以テ来ル所アリ、茲ヲ以テカ千里ノ道モ一歩ヨリ始マリ千仭ノ山モ一簀ニ起レリ、然リ而シテ長永明治両開ノ今日アルハ早野義章君、功ヲ明治三十年ニ起シ其ノ間幾多ノ事變艱難ニ遭遇セルモ、不屈不撓ノ精神ノ然ラシムル所ナリ、此ノ事業タルヤ間接ニ國家的ノ利益ニシテ、直接ニ西宮永両開両村ノ利益多大ナリ、加之両村ニ對シ千数百圓ノ寄附アリシヲ以テ、其筋ヨリ銀杯ヲ下賜セラル、故ニ本日ヲ以テ授與ノ盛典ヲ擧グルニ至レリ、嗚呼何ゾ黙スルニ忍ヒシヤ、聊カ蕪辞ヲ陳ベテ祝詞トス
   大正四年五月六日   両開村惣代
            両開村長 野田俊造   
「祝詞」のなかに「下賜」の用語があることから、天皇陛下あるいは皇族関係者から銀杯が贈られたものと推測される。
  義章が開いた明治開・長栄開、それに地元大浜町の有明開堤防は、大正8年及び昭和2年と相次いだ高潮により決壊していて、その修復に多大な出費を余儀なくされている。
   
  義章の葬儀と感恩碑建立
  義章は昭和7年1月4日午前9時30分、自宅で死亡した。葬儀は、6日に大浜町漁業組合葬として取り行われた。今ここに、義章の勤めていた大浜尋常高等小学校長の弔辞の一文がある。義章の人となりを示す貴重なものであり、全文を提示しておく。

  早野義章先生を弔う
  維時昭和7年1月6日、前の大浜尋常高等小学校長早野義章先生、忽然として逝かる。噫悲しい哉、此処に学校職員一同、慎みかしこみて先生の霊前に伏して哀悼の敬意を表し、併せて先生生前のおもかげを偲び奉らん。先生は、文久2年2月12日の生れ本日に至り実に七十有一歳、死の直前迄、壮者をしのぐ健康の保持者なりしなり。先生の健康法は早起の励行心身を菊池の川水に清め東天明けそむる頃ほひは東方遥拝天地神祇に礼拝あり、以て年少気鋭の活模範を示されたり、少年時代よりかくして心身の健康を念とせらる。略歴に依れば明治18年4月大浜尋常小学校訓導に任ぜられ三ケ年間は忠実学級の経営児童訓育に終始せらる。
明治20年4月抜擢せられて大浜小学校訓導兼学校長に任ぜられ、明治34年3月に至る。実に十有六年、その間、皇室中心敬神崇祖の精神を鼓吹せられ学校経営に児童訓育に全生命をなげうちて順々(ママ)と教をたれ給へり。此処に教えを受くる者千有余名、明治34年4月職を退かる。退きて後進に道をゆずりし後も、尚町民の行くべき目標を示され出でては各種国防・幹部におされ、入りては諄と訓を垂れ一刻と雖も席の暖まるひまもなく、カクシャクとして努力精進の道を驀進されて今日に至れり。実に先生の一生は、献身努力勇往邁進して完成せざれば止まざる意気と気象(性)の生涯なりしなり。噫今や先生は、黄泉の人となり、見れども見えず聞けどもその声は接する能はず。然れども生前の面影はホウフツとして表はれ、先生の精神をつぐもの、残されし団隊の遺業又発展し、日一日として成長伸展せんとす。先生又以て瞑すべきなり。此処に後に来る者集ひ会葬し、先生の霊を弔ふただ感慨の情に堪へず。先生の霊あらば来り受けよ之蕪辞を述べて弔詞とす。
   昭和七年一月六日
           大浜尋常高等小学校長  坂梨通
  ところで、義章の墓は、義章の自宅から西へ百メートルほど行った道路沿いの墓地に建てられている。この墓碑は、昭和13年4月、義章の門弟一同により建立されたものだ。
  また、墓碑とともに建立されたものに、顕彰碑がある。
  正面に「早野義章感恩碑」と記し、裏面に義章の功績を刻む。その全文は、次のとおりである。
 
   我大霙ハ由來副業ノ見ルベキモノナカリキ、明治32年元大霈學校長早野義章先生深ク之ヲ慨シ、漁業組合ヲ組織シ吉川水産技手村上諸氏ト共ニ疑議ノ上、終ニ海苔養殖事業ヲ起スニ決シ同36年始メテ之ニ着手セシモ、不幸ニシテ連年天害ヲ被リ毀譽紛々先生ノ一身ニ集レリ、而モ先生毅然トシテ屈セズ其後組合モ漸ク奮起シ其成績良好トナリ、茲ニ副業トシテノ基礎確立シ今ヤ年産額五・六万円ニ達シ前途益々多望ナルニ至レリ、嗚呼先生斯業ノタメ苦辛惨憺三十有餘年大霙ヲシテ永ク天恵ニ浴セシム、眞ニ偉大ナル功績ト謂フベシ宜哉、大正十年水産上ノ功勞者トシテ熊本県知事ニ表彰セラレ、昭和6年特別大演習ノ際畏クモ 賜饌ノ光榮ヲ荷ハル是、誠ニ先生家門ノ榮譽ナルト共ニ我大濱町ノ榮譽也、先生明治十三年大霍札吠職專心育英ニ從事セラルルコト十有五年、薫陶ニ預ル者皆其徳ヲ慕ヘリ、昭和七年一月四日病ニ罹リ終ニ起タス享年七十一惜哉、大霙漁業組合葬ヲ以テ之ヲ葬ル、昭和十二年組合員有志及門弟相圖リ感恩碑ヲ建テ功績ヲ不朽ニ傳ベシトス、即チ其概要ヲ録スト云爾
   昭和十三年四月三日
        門 弟  古泉貞治謹撰
        学校長  徳永武雄謹書
  なお、顕彰碑は、旧大浜小学校正門前に建てられていたが、昭和36年11月吉日に大浜漁業組合敷地へ移転され、今日に至る。
  
    おわりに
  有明海の海苔養殖は、明治30年代に確立される。その礎を築いたのが早野義章であった。熊本県水産試験場養殖支場の誘致運動を始め、大浜横島海苔製造組合を立ち上げた。ここでは、技術研修を行い、門弟たちのなかには、各地で技術を買われて雇用され、あるいは技術指導者として各地に赴いていった。その活動は、朝鮮半島からも乞われるほどで、斯界において名声を博したことが窺われる。
  このようにして、菊池川河口は海苔養殖のメッカとなった。有明海沿岸部はもとより、広くその技術が伝播された。義章のことを、今日「海苔養殖の父」として語り継がれる所以であろう。
  昭和6年12月、天皇陛下へ自慢の新海苔を献上する。死期を間近にしてもなお、義章らしい最後を飾る出来事であった。

  早野義章年譜 
 ・文久 2年  2月12日 1862  父大七、母マスの三男として生まれる
 ・明治 4年         1871  この頃、伊倉の竹添井々の「遜志齋」塾で漢学等を学ぶ
 ・明治 8年               この頃、東京へ遊学
 ・明治13年          1880  大浜小学校訓導として奉職
 ・明治18年  2月     1885   大浜小学校第六代校長に就任                                                        
 ・明治22年  7月2日   1889  アイと結婚
 ・明治27年11月    
 1894  大浜小学校長辞職・海苔養殖に取り組む
 ・明治30年        1897  明治干拓( 福岡県柳川市)に着手
 ・明治31年        1898  明治干拓完成
 ・明治33年        1900  熊本県水産試験場の誘致を行う
 ・明治34年 9月30日 1901  兄傳蔵の隠居により戸主となる
 ・明治35年 2月20日 1902  妻アイ 死去
 ・明治36年 9月30日 1903  郡会議員初当選
                      知事へ、来期の海苔養殖区画漁場弐拾万坪、免許願提出
 ・明治37年11月15日 1904  エミと再婚
 ・明治38年        1905  海苔不作
 ・明治39年        1906  第二回関西九州連合水産共進会で二等賞、
                      皇太子殿下のお買い上げに与かる
 ・明治40年        1907   第四回熊本県水産連合組合水産品評会で一等受賞
           7月 4日       大浜横島海苔水産組合認可され組合長となる
              9月30日       郡会議員二回目当選(名誉職参事会員となる)
 ・明治41年  3月18日 1908  大浜町の有明開埋め立て許可下りる
 ・大正 元年         1912  長栄開竣工(福岡県柳川市・明治開の西側)
         11月  1日       大浜町の有明開竣工 義章はじめ14名
 ・大正 4年  5月 6日  1915  干拓事業の功績でその筋より両開村長経由で銀杯を下賜さる
 ・大正10年         1921   水産上の功労により熊本県知事より表彰さる
 ・昭和 6年         1931  天皇陛下へ海苔献上。特別陸軍大演習の折、賜饌に与かる
 ・昭和  7年   1月  4日  1932  死去 午前9時30分本籍地において
 ・昭和13年 4月 3日  1938  門弟等による顕彰碑(感恩碑)建立
 

  小学校勤務期間及び校長就任の時期が諸資料で多少の相違がある。本稿では、『大浜小学校創立100年記念誌』を下に作成した。なお、「早野義章先生ヲ弔フ」には、明治18年4月着任、明治20年4月に校長、明治34年4月に退職とある。 「早野義章感恩碑」には、明治13年着任、明治28年に退職とする。

 








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