熊本県教育委員会 文字を大きく  文字を小さく  色を変える

谷口 巳三郎 (たにぐち みさぶろう)



谷口 巳三郎 (たにぐち みさぶろう)

農業指導者
大正十二年(一九二三)十一月一日生まれ 
坂本村出身

業績概要

 熊本県立農業大学校教官を定年退職後、発展途上国の農業技術指導、特に農村青年教育に余生を捧げたいとの思いから、昭和五十八年、五十九歳の時単身タイにわたり、以降十九年間にわたり青少年教育の他、地域開発アドバイザーとして活躍している。平成二年からは、タイ北部のパヤオ県サクロウ村に約二十ヘクタールの「二十一世紀農場」を開き、多様なプロジェクトを精力的に推進している。農業技術指導のみならず、現地の農業高校生の受け入れ、エイズ患者・家族支援、地球環境破壊防止の植林、など様々な活動に取り組んでいる。このような谷口氏の活動は、現地においても高く評価されており、平成十年にはタイの国立メジョー大学から名誉農学博士号を授与された。またタイから日本へ研修生を派遣したり、日本から多数の研修生や訪問団を受け入れるなど、アジアと日本の国際交流を担う人材育成に多大な貢献をしている。


昭和十八年 鹿児島高等農林学校(現鹿児島大学農学部)入学
   昭和二十四年 熊本県農業改良普及員
   昭和三十三年 国際農友会の派遣研修生としてデンマークへ留学
   昭和五十七年 熊本県立農業大学校教官を定年退職
   昭和五十八年 単身タイにわたり農業振興に取り組む
   平成   二年 タイ北部のパヤオ県サクロウ村に約二十ヘクタールの土地を購入し、「二十一世紀農場」を開設
   平成   七年 経済協力に関する日本国外務大臣表彰
   平成   十年 タイ国立メジョー大学から名誉農学博士号を授与される
   平成  十二年 西日本銀行国際財団アジア貢献賞

二十一世紀の"肥後モッコス" 谷口巳三郎の人と業績

     沖村 好運(北部タイ農村振興支援会会長)

(1)名誉農学博士号授与式
 一九九八年二月十九日、午後四時十八分。チェンマイにある国立メジョー大学の講堂は三千人を超える人で埋まっていた。緊張した静寂の中に黒いガウン姿の谷口巳三郎が登壇。表情を変えず、ピンと背筋を伸ばして、タイ王室の三女チュラポン王女の前に立ち、一礼―。

 数日前から谷口は体調を崩し、疲労の極にあった。名誉農学博士号授与式のこの日も好転せず、授与式のリハーサルが終わると、すぐ救急車で国立病院の救急治療室に運ばれた。

 ただちにノドにからんでいる痰を吸引する処置が取られた。谷口は細い管を突き込まれる度に、激しく咳き込み、苦しんだ。

 応急治療はうまくいかず、式場へ引き返した。帰る時、看護婦に治療費を尋ねると、「谷口先生は、タイのために尽くして下さっている方です。お金はいりません」と言って病院の救急車を呼び、メジョー大学まで送ってくれた。大学に帰ってからも、王女が入場される直前まで休養室に寝ていたのである―。

 チュラポン王女の前に立った谷口の姿には、強靱な意志力で凛々と生きるサムライの気概が感じられた。

式場いっぱいに、谷口巳三郎の業績を紹介するアナウンスが流れる。

 「谷口氏は日本の公務員を退職後、単身でタイに来て、主に北部タイで農村青年に農業技術を教えながら、高地民族やエイズ患者など多くの人達を助け、沢山の子供たちに奨学金を贈って教育の機会を与えたりして、北部タイ農村の社会開発に尽力されました」

式場を揺るがす大きな拍手が湧き上がった。


--------------------------------------------------------------------------------
(2)祝賀会

 博士号授与式当日の夜、チェンマイ市内のホテル「ホリデー・イン」で盛大な祝賀会が開かれた。その席でも谷口の体調はどん底であった。しかし声にも、姿勢にも、その兆候は微塵も見られなかった。祝辞、花束贈呈と進み、谷口が謝辞を述べることになった。

 「十五年前に、私は一人で二十キロのカバン一つを持って、バンコクの空港に降り立ちました。暑い時でした。

 タイには、農村開発と青少年の問題で沢山の課題があります。私は一人で考えていろんなことを試みました。しかし、これという成果は上がりませんでした。何も出来ない内に、日本から持参した退職金は全部使い果たしました」

谷口は淡々と十五年間の苦労を語った。聴衆は、じっと谷口を凝視する。

 「二週間前のことです。昼寝をしていたら、グリーンスネークが私の目の前にドタッと落ちてきました。昨年はコブラが落ちてきました。人は、『それなら、日本に帰りたいでしょう』とよく言います。私は『ノー』と答えます。病気になった時には心細くなることもありますが、私の答えは『ノー』です。

 私は七十五歳になりました。日本に帰ろうと思うこともあります。しかし、今日、タイの国立大学から名誉博士号を戴きましたので、これでいよいよ帰れなくなりました」

 谷口のトーンが高くなった。

 「地球上の人口は、依然として爆発的に増加しています。食糧を作るのは誰ですか。それは東南アジアの農民です。タイの青年諸君です。今後も命が続く限り、タイの人たちと手をつないで、タイのため、人類のために頑張ります」

 気力で立つ谷口巳三郎の獅子吼であった。

 翌々日の二月二十一日の夜には、農場で教え子主催の祝賀会が開かれた。パヤオのロータリー・クラブの会員も十人ほど来ていた。

 パ・ハオ村のエイズ患者の姿もあった。初めに、国立メジョー大学のジェラシット教授が立って、

 「谷口先生の十五年間の実績が高く評価されて、今日の受賞となりました。谷口先生と長いつき合いをしている者の一人として、とても嬉しいです。谷口先生を称える詩を書きましたので、朗読します」
と言って、タイ語の詩を読んだ。その声はうるんでいた。

 谷口の教え子たちが前に並んだ。ヴィッチャイ校長、トム女史、ダイエ、ヨハン、スリヤ、ヤティー、サン、ビン、みんな谷口が育てた若者たちである。結婚もせず一人でリス族の子供たちのために寮を作り、世話をしている日本人の中野穂積女史もいる。

 谷口は、司会者からマイクを借りて、

 「この十五年間に何をしたかと問われたら、私は『この若者たちを見よ』と言いたい。この若者たちこそ私の自慢です。あとは何もいらない・・・」

と言って、声を詰まらせた。中野穂積女史は泣き出した。深い感動が会場を覆った。

ラフ族のダイエが一同を代表して、力強い日本語で谷口への祝辞を述べた。

 「谷口先生は、十五年間、ほんとうに大変でした。先生は、右、左から、私たちを導き、教えて下さいました。谷口先生、有り難うございます」

 ダイエは、「先生の人生が幸せでありますように」と言って、『乾杯』という日本の歌を伴奏なしで最後まで歌った、日本語で。


--------------------------------------------------------------------------------
(3)谷口巳三郎の少年時代

 谷口は小学五年の時に肋膜炎を患い、一年遅れて旧制八代中学校に入学した。

 山村の坂本村(旧上松球麻村)から通学するには大変な根性が必要であった。朝は六時には起床し、二キロほど歩いて肥薩線の汽車に乗った。

 その行き帰りの汽車の中で、谷口は空席があっても決して座らなかった。それのみか、車内にピーナツの食べ殻や紙屑が散乱していると、それを拾い集めて始末した。

 中学の四、五年生になると軍事教練が正課になった。脚にゲートルを巻き、背嚢を背負って鉄砲を担ぎ、炎天下を二十キロも、三十キロも歩くのである。その時も谷口は水を飲まなかった。そして水を欲しがる級友がいると、惜し気もなく自分の水を飲ませた。そんな禁欲的で意志の強い谷口を、級友は〃八代中のガンジー〃と評した。

谷口の生家のすぐ横には、小さな薬師堂がある。彼の家は代々その堂守りをしていた。谷口家の主婦は、朝早く起きて飯を炊いたら、〃お初穂〃を、先ず、薬師様に供えた。

 観音堂には、よく泊まり客があつた。巡礼の修業僧もいたが、乞食もよくそこに寝た。今日の言葉で言えば〃ホームレス〃である。谷口少年は、そんな人を見たら、「ここは夜は冷え込むから、僕の家に来て寝なさい」と声をかけて、家に連れてきた。握り飯を持って行くこともあった。

 こんな谷口のパーソナリティーは、いったいどのようにして形成されたのだろうか。


--------------------------------------------------------------------------------
(4)母サノの後ろ姿

 谷口の母サノは、十九歳で谷口家に嫁いできた。大変な働き者で、家族への心配りにも抜けるところはなかった。

谷口の祖母は、 「私のすることは何もなか。私は安心してサノどんに任せられる」と言って、若い嫁に感謝した。

母は敬虔な仏教徒だった。秋になると、谷口家のすぐ下の谷川では、川蟹が沢山とれた。母は、それを鍋でゆでる時に、鍋の蓋を押さえて、「生(しょう)変えろ、生変えろ」と祈った。「今度生まれ変わる時には、ガネに生まれるなよ」という意味である。

 父の弟が妻と四人の子を残して三十九歳で急死した。母は、路頭に迷うその一家を温かく家に迎え入れ、わが家族同様に面倒を見た。この一家が谷口家から出て自立した後も、家で取れたイモやお茶などを借し気もなく分け与えた。

谷口にはシズカという姉がいた。シズカは、不幸にも三歳の頃にハシカが原因で失明した。母は、目が見えなくなったこの娘を、見事に自立心旺盛な子に育てた。

 家族の洗濯物をたたむのはシズカの受け持ちで、整理整頓の名人になった。風呂から上がった弟の忠生が下着等の所在を尋ねると、「それは整理タンスの三段目の右隅にある」と即答した。家族の肌着は襟を触ってそれが誰のものかを判別して、個人別に所定の引き出しに収納したのである。

 飯炊きも、子守もうまかった。掃除も上手で、廊下や柱、下駄箱、トイレまで、ピカピカに磨き上げた。そして、小さな足音で誰が来たかを百発百中言い当てた。

 父忠平は、物静かな中にも凛としたところのある人であった。山林を管理し、木材業者として仕事熱心で、家庭のことは妻に任せつつもよく協力していた。

 このような谷口家の家風が、若い巳三郎少年の人格形成に、微妙で、かつ大きな影響を与えたのではないだろうか。


--------------------------------------------------------------------------------
(5)青年谷口巳三郎

 谷口は旧制八代中学校から神宮皇学館に進んだが、「ここは俺の性に合わない」と一学期で自主退学してしまった。時代の流れに無批判に乗った当時の学風を嫌ったのである。

 翌年の昭和十八年、鹿児島高等農林学校(現在の鹿児島大学農学部、以下鹿農)に入学したが、間もなく学徒動員で予備士官学校に入る。

 ここで谷口は事件を起こす。彼は、大胆にも日誌の中で予備士官学校の教育を批判したのである。それが教官に見つかったのだ。営倉入りかと覚悟した時、彼に一目置いていた担任将校が口添えしてくれたので、謹慎五日の処分で済んだ。ここにも大勢に身を委ねない〃肥後モッコス〃の血がうかがえる。

 南方戦線から復員し、鹿農に復学。昭和二十三年、卒業。

 鹿農を卒業した後の谷口には、幾つもの面白いエピソードがあるが、割愛する。

 鹿農卒業後、谷口は長野県の八ヶ岳にある(財)農業実践大学校で、本格的な百姓になる勉強をする。夏期休暇には東北各県の農民道場(現在の農業大学校)を歴訪した。谷口らしい研修である。その中で彼は、「農業の指導者は自ら鍬と鎌を握り、それで飯を食えてはじめて大口がたたけるものだ」と自得した。この信念は、以後、谷口の農民指導・農村関発のバックボーンとなる。


--------------------------------------------------------------------------------
(6)一農民となってドン底生活を体験

 八ヶ岳の農業実践大学校を卒業した谷口は、熊本県の農業改良普及員となり、農村青年教育と4Hクラブの指導に情熱を傾けた。

 しかし公務員生活を五年ほどでやめ、菊池郡泗水町花房飛行場跡の開拓地に入植、農民としての第一歩を踏み出す。昭和二十九年、三十一歳の時である。

 強酸性の火山灰の痩せ地での農業は難しく、ここでドン底生活を体験する。

 その頃の日本農業は、苦境のドン底でもがいていた。農村を立て直す方策が、国にも、農民にも、見えなかった時期である。


--------------------------------------------------------------------------------
(7)デンマークに留学する

 谷口の頭に閃くものがあった。少年時代から大の読書家だった彼は、鹿農時代に内村鑑三の本を熟読していて、北欧の小国デンマークが世界農業の模範となっていることを知っていた。

 「よし、デンマークへ行こう―」

 昭和三十三年、国際農友会の派遣研修生としてデンマークへ渡る。三十五歳の時である。

 彼は、夏は農場で働き、冬は全寮制の国民高等学校で精力的に研修した。余暇を見つけては、ノルウェー等の北欧諸国をも見て廻った。

 二年のデンマーク留学を終えて帰国し、菊池伝習農場に復帰する。その後、昭和五十七年定年で退職するまで、ここで若い農業後継者の育成に専念した。


--------------------------------------------------------------------------------
(8)タイヘ渡る

 谷口巳三郎の胸の裡にはかなり前から、退職後の人生設計があった。彼は在職中に、四回、東南アジア諸国へ農業事情の調査研究に出かけている。全て自費の旅であった。

 「南北間の格差を是正しなければ真の人類の幸福はない。麻薬、環境破壊にもブレーキが掛からず、人口は爆発的に増加している。このままでは地球が危ない―」

 世界的視野を持った谷口には、日本の危うさも心配でならなかった。「経済摩擦の激化で四面楚歌に追い込まれるだろう。二十一世紀の食糧不足は目に見えている。その時、どこの国が日本を助けてくれるか。手遅れにならないうちに何とかしないと―これまで営々として貯えてきた自分のノウハウを、日本と人類のために役立てることは出来ないか」

 谷口は在職中、JICAが招聘した東南アジアの農業研修生の指導を担当した。東南アジアの研修生の中には親身に指導してくれる谷口の人格に感激して、「私の国に来て指導して下さい」と要請する者が多かった。中でもバングラディシュの研修生が一番熱心であった。しかし、バングラディシュは日本との格差があまりに大きい。彼は思索の末に、「まず、タイヘ行こう」と決断する。

 谷口は、妻恭子と幾晩も話し合った。

 恭子は女学校の頃から、一生の仕事として〃人作り〃を決めていた。彼女は同志社女子大学に進み、卒業して八代白百合学園高等学校の教諭になった。

 「私は残りたい。日本は経済面では世界の上位だが、暖かい心を忘れている人が多い。私は、物心両面で上位になれるよう日本で人作りをしたい」

 近年、恭子は健康に不安があったので、自分は菊池に残り「茶禅一味」で日本の若者を育てよう―と思った。

 「それも大切だ。二人の子供も独立し、家庭の責任は終わった。これからはお互いやりたいことをしよう」

 「頑張って下さい。私は日本に残って、出来る限りのお手伝いをします」

退職した翌年の昭和五十八年の二月一日、谷口はタイヘ渡った。
 息子の陽一郎が、父をチェンマイまで送った。


--------------------------------------------------------------------------------
(9)苦闘と結実
 谷口が最初に手がけた仕事は、高地に住む少数民族の自立支援であった。ケシに代わる換金作物として、コーヒー、茶、大豆、椎茸、里芋、しょうが等の栽培を勧め、指導して廻った。トラックに寝具、食糧、食器などを積んで、山から山へ、何日もかけて巡回指導した。トイレの改造、水道施設の建設にも力を注いだ。

 谷口が最も心血を注いだのは、循環式有機農法と研修農場の建設、そして青年の育成であった。有能な若者を見つけてリーダーに育てることは、谷口の夢であった。

 彼は、ヴィッチャイ(現在、高地民族学校長)、ダイエ(ラフ族生徒寮の責任者)、ヨハン(若竹寮の責任者)、スリヤ(モン族の青年リーダー)をスカウトし、自分の農場に住み込ませて、食わせ、高校や大学で勉強させた。

 谷口の非凡な鋭い眼力もさることながら、彼らは谷口の期待に応えて、素晴らしいリーダーに育った。現在、彼らは、独自のビジョンと人脈を構築して、後輩の育成に頑張っている。

 谷口が名誉農学博士号受章の祝賀会で、「この若者を見てくれ」と言った理由はここにある。


--------------------------------------------------------------------------------
(10)谷口プロジェクト
 谷口は、現在、北部タイのパヤオ県チュン郡サクロウ村に約二十ヘクタールの農場を開き、「二十一世紀農業&職業訓練センター」という看板を掲げて、多様なプロジェクトを精力的に推進している。その主なものをあげてみよう。

1.農業技術指導(水稲・野菜・果樹栽培、堆肥作り、豚・鶏飼育、淡水魚飼育)
2.高地少数民族の自立支援(換金作物の指導、植樹奨励、水道とトイレの建設)

3.パヤオ農高生受け入れ(毎年一年生二十名)

4.エイズ患者・家族支援(ナマズ養殖、自立のための職業訓練、生活援助、遺児奨学金)

5.売春婦転落防止のための職業訓練(草木染め・縫製技術講習)

6.地球環境破壊防止の植林(高地少数民族の村、国道沿線、農場内)

7.老人福祉活動支援(老人憩いの家)

8.有能な児童教育支援(奨学金制度の設置)

9.各国研修生受け入れ(日本の大学生・高校生・中学生・一般人だけでなく、アセアン諸 国の研修生)

10.タイ青年農業研修生日本派遣(有能な高校生、大学生、農民等を選抜して日本へ派遣)


--------------------------------------------------------------------------------
(11)谷口支援グループ

 妻恭子は、生活費を最低限度に切り詰めて谷口をサポートし続けた。兄弟姉妹、従兄弟たちも、物心両面で応援した。〃親方日の丸〃はいやだと言う谷口の心意気は壮とするも、それは想像を絶する苦労の日々であった。

 谷口渡タイ六年後に、谷口と家族の窮状を知った友人・教え子達が中心となって「タイ国の谷口巳三郎氏を支援する会」(後に「北部タイ農村振興支援会」と改称)を結成する。

 現在、恭子は「タイと交流する会」を作り、谷口農場の支援だけでなく、売春・エイズ防止、育英のための里親募集、高地族女性自立支援のミシン・プロジェクト、果樹の森造りなど、「高地族とエイズ患者に光を!」と幅広い支援活動を続けている。

 そのほかにも谷口を支援するグループは、東京、千葉、静岡など全国各地にある。人数はさほど多くはないが、みな、谷口の高邁な志に共鳴共感した人達である。谷口は、日本国内でも、ニュー・タイプのボランティア活動家を育てている、と言えるだろう。


--------------------------------------------------------------------------------
(12)ユニークな「谷口学校」

 谷口プロジェクトの全容を紹介することは不可能なので、(10)の3,4,6,9の概要を述べる。

3.パヤオ農高生受け入れ

 一九九九年からパヤオ農業高校の一年生二十名を全寮制で受け入れている。しかし、タイ文部省からの財政的協力はない。それにもかかわらず、ここでの谷口の教育法はタイ国内の注目を集めつつある。

 広場での朝礼には、農場にいる者全員が集まる。国歌斉唱、国旗掲揚の後、「三つの誓い」を溌らつと大きな声で唱和する。

 一、私は、家族の希望の星

 一、私は、国の宝

 一、私は、人類の食糧を生産する戦士

谷口巳三郎のボランティア哲学が凝縮された「誓い」である。

4.エイズ患者・家族支援

 母サノの敬虔な仏心は、息子巳三郎の遺伝子にも組み込まれているようだ。彼は、北部タイの貧しい村や山の中のエイズ患者を、われ関せずと見捨てることが出来ない。臨終を迎えようとしているエイズ患者たちは、枕元に座ってくれている谷口に合掌し、明るい顔で仏のみ元へ旅立って行く。孤独なエイズ患者の心の杖になろう―これは谷口の菩薩心なのである。

 彼が取り組んだ、そして現在も続けている支援の全貌を紹介するとなれば、原稿用紙は何百枚あっても足りないので、現在彼が続けていることを一つだけ紹介する。

 谷口は、毎週木曜日の朝、農場で作っている有機野菜や果物、卵等をトラックに積んで、国立チュン病院に行く。検診のためにやってくる多数のエイズ患者に、それらを無料で配るためである。

6.地球環境破壊防止の植林

 農場の一隅に「七年間に四万本の木を植えた男」と題した大きなパネルが立っている。その中に次のような一節がある。谷口のかつての鹿農の学友谷川清四郎の文である。

 「・・・彼はタイに来て十五年、その間に約四万本余りの木を植えた。彼自ら一鍬一鍬穴をほり、そこに苗木を植えたのではない。しかし、彼がこの熱帯の北部タイの地に居なかったなら、多分この四万本の木は植えられることはなかったであろう。それは彼が木を植えたのは、地球に緑を殖やさねば、環境を元に復帰させねば・・・という強い意志と、そしてその行為に私利私欲の全くない、その気持ちを汲んだ日本の多くの人々の浄財が彼に送られ、その金を基にして樹や果物の苗や種子を買い、彼の農場の苗畑で数カ月から一年かけて苗を育て、それを研修生や来訪者や村人達と植えたのである」(以下略)

 補足は不要であろう。彼が教えた農業大学校の生徒の中には、結婚記念にチークを植樹したカップルもいる。ロータリー・クラブと協力して植樹を続けている自営業者もいる。

9.各国研修生受け入れ

 近年、日本の大学でも谷口農場への関心が高まっている。鹿児島大学と佐賀大学はすでに海外での体験研修として、数十名単位で、かつ長期滞在の形で、「二十一世紀谷口農場」に学生を送り込んでいる。勿論、農場での研修は履修単位として認定される。

 長期の休業中、あるいは随時に、農場を訪れる日本人の数も年々増加している。最近の傾向として、中・高校生の来場が多くなった。本年(平成十三年)の夏には、谷口の故郷八代郡坂本村の中学生十五名が来場した。村が派遣したのである。

 「二十一世紀谷口農場」を訪れた者は、農場を出るとき異口同音に、「ここに来て人生観が変わった」と言う。そして帰国後、ボランティアとして、地元で、あるいは国際的に、地道な活動を始める。谷口の筋金入りのボランティア・マインドに触発されての変身である。

 このような現実を見れば、谷口は、これまでの日本の歴史になかった、全く異色の、それも地球的規模の「国民高等学校」を、タイ北部の貧村サクロウ村に建設したと言えないだろうか。



--------------------------------------------------------------------------------
(13)終わりに

谷口は、「やしの実」と「遠くへ行きたい」という歌が好きである。

 タイ北部の貧しい農村地帯を走っていた時のこと、谷口が突然に「遠くへ行きたい」を歌い出した。なかなかの美声であった。

どこか遠くへ 行きたい

愛し合い 信じ合い

いつの日か 幸せを

愛する人と めぐり逢いたい

どこか遠くへ 行きたい

歌い終えると、谷口は、ポツリと独言のように言った。

「私は、死ぬ時、多分、おんおん声を上げて泣くだろうなあ―」

 私は谷口の胸中を察し、こみ上げてくる涙を押さえることが出来なかった。

しばしば絶望の崖に追いつめられ、時には命を奪われそうにもなった谷口巳三郎。今年、七十八歳。

しかし、初志を貫き通してわが道を歩く谷口は、今朝も、若い農業研修生達の前に、ピンと背筋を伸ばして、凛と立っている―。

[資料] ・「農業後継者の全寮生教育」(谷口巳三郎著・昭和五十六年刊)

・「二十一世紀農場便り」(一〜三十六号)

・エッセー「私のエイズ最前線」(一〜二十四号)

・エッセー「熱帯に生きる」(一〜二十号)

タイの「21世紀農場」にて

タイの「21世紀農場」にて
写真提供:沖村好運 様



新規ウィンドウマークこのマークの付いたリンクは新しいウィンドウが開きます。
PDF形式のデータをご覧になるためには、Adobe Readerが必要です。
お持ちでない方は、右のアイコンをクリックしてダウンロードしてください。(無料)

このホームページで使用されている画像およびテキストを、無断で転載することを禁じます。

Copyright (c) Kumamoto Prefectural Board of Education All right reserved.