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源 了圓 (みなもと  りょうえん)


源 了圓 (みなもと  りょうえん)

日本思想史研究
大正九年(一九二〇)七月二十七日生まれ 
宇土市出身

業績概要

 大学で長年にわたり教鞭をとり、現在、東北大学名誉教授。東北大学時代、日本文化研究所に所属し、外国や他大学の研究者と積極的に交流を進めた。また、勉強会を主宰するなど後進の育成にも尽力した。国際基督教大学時代は、北京日本学研究センターの設立に関わり、招聘教授として講義するなど中国でも活躍。その後も、オックスフォード大学客員教授として招かれるなど、世界的に活躍した。研究領域は広大であるが、日本思想史とくに江戸時代の思想と日本文化論が主な対象である。広い視点から多くの意見をとり入れ、資料を積み上げながら着実に論を進める研究法により、画期的な業績を上げている。多くの秀逸な論文や著作を発表しており、海外でも翻訳出版され、高く評価されている。現職を退いた後も、各地で講演やシンポジウムに取り組むなど、精力的な活動を続けている。日本思想史研究に残した足跡は偉大であり、学術の振興に大きく貢献している。

  昭和二十三年 京都大学文学部哲学科卒業
  昭和三十八年 日本女子大学助教授
  昭和四十一年 米国コロンビア大学招聘
  昭和四十三年 日本女子大学教授
  昭和五十一年 東北大学教授
  昭和五十九年 国際基督教大学教授

  昭和六十一年 同大学院教授、北京日本学研究センター招聘教授
  平成  三年 国際基督教大学を退職。同年五月から十一月、オックスフォード大学客員教授
  平成 十三年 日本学士院会員 

[主要著書]
『徳川合理思想の系譜』『文化と人間形成』『近世初期実学思想の研究』『実学思想の系譜』『型』『佐久間象山』『蓮如』など

日本思想史学界の大樹

        光岡 明

 この稿を書くにあたって、源了圓先生ご本人から「業績一覧」を送って頂いた。それによれば主要著書は昭和四十四年六月の『義理と人情』(中央公論社)から昭和六十年九月の『日本人のこころ』(国際基督教大学学生部)にいたる十六冊が上げられ、このなかには『徳川合理思想の系譜』(中央公論社)『文化と人間形成』(第一法規出版)『近世初期実学思想の研究』(創文社)『実学思想の系譜』(講談社学術文庫)『型』(創文社)『佐久間象山』(PHP研究所)『蓮如』(講談社)などの問題作がある。

 編著書では昭和四十九年七月の『日本思想史の基礎知識』(有斐閣)から平成十年三月の『横井小楠のすべて』(新人物往来社)まで十三冊が上げられ、このなかには『江戸の儒学―「大学」受容の歴史』(思文閣)『江戸後期の比較文化研究』(ぺりかん社)『日中実学史研究』(思文閣)『国家と宗教―日本思想論集』(同)などがある。

 論文にいたっては実に一四三本。ほかに英文、ドイツ文、中国文、韓国文で書かれたものもあって、枚挙にいとまがない。

 研究者にとってはこの「業績一覧」をそのままのせるのが、もっとも親切な手段だろうが、この稿は一般向けであってそうもいかない。このほかにも頂いた資料がある。すべてを熊本県立図書館付設熊本近代文学館に入れるので、研究者、専門家はそちらにお出かけ頂きたい。


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 源了圓先生は日本思想史学界の大樹である。その影は日本のみならず、アメリカ、イギリス、中国に拡がる。

 大樹は困難なときに育った。先の戦争をくぐりぬけたのである。

 源先生は大正九年(一九二〇)のお生まれだから、旧制の熊本県立宇土中学校(現宇土高校)第五高等学校文科乙類(現熊本大学文学部)京都帝国大学哲学科の在学時代、日本は日中戦争から太平洋戦争へと突入していった(年譜参照)。先生は昭和十八年十二月から敗戦を過ぎた二十年九月まで兵役にあったのである。

 「省みると私たちの(宇土中)在校当時はほんとに辛い時期であった・・・・・・やがて国民精神総動員がかけられる。新しい時代の動きにうまく乗っていく先生、必死になって抵抗する先生、じっと堪えている先生・・・・・・戦場に立たれる先生方に(生徒)代表としてご挨拶を申し上げねばならないことがほんとに辛かった。こうした中である日突然、今まで教わったことや獲得した知識がすべて不確かなものと思われ、この人生で確かなものは何かという問いが私の中ではじまった・・・・・・」 (平成元年三月八日付け、宇土高PTA会報)

 「・・・・・・私は自分が別世界に入ってしまったことを感じた。そして戦争のただ中でも自分の心の中の虚無を消すことはできなかった。このような虚無を克服する以外に自分の道はない。そう思って京大哲学科を選んだ。良き師、良き友に恵まれて必死に自己を求めた。無理が崇って結核・治癒・学徒出陣。軍隊で小隊長としての責務を全力を傾けて果たすうちに自分の生命力が回復し、その中で私は究極的なことに就いての『判断中止』の下で、その時その時に判断し決断し行為することを学んだ・・・・・・」 (平成七年十月三日付け、朝日新聞「自分と出会う」)

 なお、前記の朝日新聞のエッセイによると、先生は薩南海岸にあった部隊基地の砂浜で、グラマン戦闘機に襲撃されている。

 「ある日、独りで海岸沿いに拡がった陣地の見まわりをしていた時、今でもその理由はわからないが、私はふと身をかがめた。その瞬間、頭の真上を何か巨大なものが横切ったと思ったら、突然バリバリという音とともに砂煙りが立ち上がり、それは私の目の前数メートル先から約一メートルの間隔でつづき、五十メートル先ぐらいで消えた。エンジンを止めて背後から私をねらっていたグラマン戦闘機だった・・・・・・」

 先生はこのときニーチェの「運命愛」ということばを思い出したという。

 敗戦、復員、復学。

 「勉強していない、という思いがその後の叔父を駆り立てたのではないでしょうか」と甥の源重浩氏(源先生の生家・宇土市光国寺住職、元龍谷大助教授)は語る。合わせて京大大学院在学のまま入った編集者生活によって、先生の前には広大な地平が開かれる。ここ以降の記述は「私の歩んできた道」(源了圓教授古稀記念論文集「近代化と価値観」国際基督教大学アジア文化研究所発行)による。「・・・・・・・・・」で紹介する原文のままを除いて、どうしても私(光岡明)のつたない解釈が入る。どうか原文に当たって頂きたい。

 源先生はまず世界文学社で『哲学季刊』、弘文社で『哲学辞典』、開国百年事業会から出た明治文化史シリーズのうち「思想・言論篇」の編集を担当された。中身のわからない編集者は存在しない。編集すること即勉強である。「日中の大半は本務(編集の仕事)に親しみ、京都の市電の中では小型の欧米の本を読み、大型の本は夜家に帰ってから読んだ。その頃はまだ哲学系の本も読んでいた。そうした中で日本思想史関係の原典や文献を読んだ。時間が足りないので結局睡眠時間を削る以外にない。夜半疲れ切って二階の階段を踏み外し、陋屋の壁を突き破ったこともあった」

 この間に源先生はさまざまな大先達に出会い、友人を獲得する。一部を列挙しよう。

 高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高、務台理作、三宅剛一、下村寅太郎、坂田吉雄、松本三之介、伝田功、アルバート・クレーグ、ジョン・ホール、マリウス・ジャンセン、ドナルド・キーン、W・T・ド・バリ、ジェイムズ・マクマレン、野田又夫、金山穆韶、鈴木大拙、曽我量深、金子大栄、吉川幸次郎、深瀬基寛、丸山真男、湯川秀樹・・・・・・。

 国内外にわたる絢爛たる人脈といっていいだろう。このなかで源先生は特に高坂正顕、坂田吉雄、丸山真男、深瀬基寛、西谷啓治の五先生について、特に高坂、西谷の二先生について思いをのべておられる。

 「高坂先生はカントの研究家であるとともに歴史哲学の研究家として知られた方であるが、実に気持のゆったりした大人」であり、「博い学識とともに実に繊細な、そして瑞々しい感受性を持っておられる」。「オルガナイザーとしてもすぐれ、先生のお宅で日本思想史、日本史、日本経済史、中国哲学史の専門家、それにアメリカ史のオーティス・ケリーさんなどもオブザーバーとして加わって、月に二回ほど日曜日の午後研究会が開かれ」、「私は月に一回は必ず報告させられた。プロの方々の前で、今まで勉強もしなかったことを報告するのであるから、冷汗をかくことばかりだった」。

 しかし源先生が報告したうち「横井小楠の実学」が『哲学研究』に、「自然主義と漱石・鴎外」が『明治文化史、思想・言論篇』に採録された。研究者のスタートは切られていたのである。

 また「どうしても書かねばならない」こととして西谷先生の代表作であり、英、独両語に翻訳もされている『宗教とは何か』の口述筆記を担当したことを書いておられる。「私はこの口述筆記の記録をはじめてから、自分が大変なことの立会人になっているということを実感した」。「先生のそれまでのお仕事は、表現の上では歴史に即しながら、自己の思想を表現されることが多かった。ここでは宗教の内側から宗教の本質を語る試みが体験的になされ、その基本的立場は先生独自のリアリズムであった」。まさに編集者冥利とはこのことであろう。

 しかし京都と東京の二重生活の清算を通告された先生は、ためらうことなく研究生活を選んだ。おりから高坂先生を代表とする「日本の近代化の特質」という研究計画がロックフェラー財団に認められて、先生はその計画の研究生になられた。また「人性研究会」「大学の理念研究会」「哲学語彙研究会」「徳川時代における人間尊長の系譜研究会」とまたたく間に研究ひと筋の生活となった。最後の研究会で源先生は「義理と人情」というテーマを担当し、これが後の著書『義理と人情』の基となった。

 「ある意味から言えば無茶苦茶な時代であった。一つの研究テーマに絞り、早く一冊の本を書いた方が処生の道として賢明だったかもしれないが、そうしたことは全く考えず私はこれらの研究会で海綿のように多くを吸収し、またそこで多くの論文を書き、多角的な関心を持つ研究者として、自己を形成していった」。この時期に京都大学教育学部、同文学部、大阪市立大法学部の非常勤講師もつとめている。

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 源先生がいわゆる学究の生活に入られたのは、昭和三十八年四月、日本女子大学文学部助教授(同四十三年四月教授)になられてからである。以後、昭和五十一年四月から東北大学教授、そして同五十九年四月から平成三年三月まで国際基督教大学教授をつとめた。大樹は確実に一本一本と枝を伸ばしはじめたのである。

 日本女子大に入るについて高坂先生の推輓があった。女子教育ということで源先生にははじめ戸惑いもあったようだが「人間教育」ということで割り切られたという。教育学科を(広義の)哲学系、教育系、心理系の三系列に組み直す改革が進んでおり、先生はカリキュラムの整備、人員配置などに奔走された。

 日本女子大時代、源先生にとって大きな出来事があった。昭和四十一年から四十二年にかけて、アメリカのコロンビア大学に招聘され講義を行なったことである。それまでも海外で行われる学会にはしばしば出掛けておられたが、本格的講義であった。古代からの日本思想史講座である。

 はじめは英文のノートを作って「アメリカに和英辞書を引くために来たのかと苦笑」する時もあったようだが、やがて英語にも慣れられ、あとではノートなしで講義された。英米の日本研究者―ライシャワー、ジョン・ホール、マリウス・ジャンセン、ロックウッド、シャイヴリィ、ロナルド・ドア、ピーター・ドウスら―が集まったバミューダ会議に、日本人としてただ一人参加されたこともあった。

 「そうした中で私は、自分の学問的課題は日本の思想史研究ではないか、そうして日本語で発表するのではなく、日本の思想について外国の人々に可能な限り正しく伝えることも心懸ける必要があるのではないか、という気持ちがだんだん固まってきた」「人間性の普遍性、文化の特殊性ということを実感し、文化の特殊な形からくるさまざまな差異に目を奪われて人間性の普遍性を見失ってはならないこと、またしかも文化の差異、ないし文化の個性はやはり非常に重要なものであるから、それぞれの文化の個性をよく認識し、それがどのような条件の下に形成されたのか、それがそこに住む人々のWay of lifeとどう関わっているか、ということを理解して、他の国の人々と交際してゆかねばならない」

 これがアメリカを去るに当たっての源先生の実感と決意であった。

 日本女子大に復帰した先生を待っていたのが大学紛争であった。その上先生は文学部長に選任された。当時の有賀喜左衛門学長と二人カン詰めにされ、一日三、四時間の睡眠で七キロも体重が減ったという。先生は多くを語っておられないが「教員も学生も一人一人傷を受け、組織も傷ついて、しかも将来への前進の歩みの一歩をなかなか踏み出せず、日本の高等教育が低迷したことは間違いない」と述懐しておられる。源先生は「数と正義との関係という古来からの難しい問題をリアルに感じた」とも。

 このころ先生の主著とも言うべき『義理と人情』(昭和四十四年)『徳川合理思想の系譜』(同四十七年)が生まれている。これについては後段でふれる。

 東北大学では日本文化研究施設(日本文化研究所と同じ。施設というのは官庁用語)に所属された。この研究所は「三太郎の日記」で著名な阿部次郎東北大名誉教授が私財を投入して作ったもので、初代の基礎部門教授が国際的文化人類学者の石田英一郎先生だった。いまある京都の国際文化研究センターにはるかに先駆けていた。ここでは韓国・中国・米・英の第一流の研究者を招聘し、共同研究に参加して貰った。その中の一人にドナルド・キーン教授がおられる。キーン教授は研究会だけでなく、学内の公開講義や仙台市民のための公開講演をして下さって、東北大学の人々や仙台市民に深い感銘を与えられたということである。

 最初の一年間は研究と研究所教育だけで「最高の研究的雰囲気」だったが、やがて大学の方の日本思想史講座との兼担教授となり、忙しい日々を送ることになった。同時に日本思想史学会の難しい問題も背負う破目になった。しかし先生にとっては学生教育は後継者を育てるという別の楽しみがあったようで、「東北大学だけに自己閉鎖的にならないで、他大学の研究者と積極的に交流」することを勧められた。また先生は日本思想史研究者は東アジアの思想や文化の中で日本の思想を研究する必要があると考え、教養学部の気鋭の中国哲学専攻の三浦国雄・吉田公平という若い助教授にお願いして、中国の古典を勉強する会をつくり、ここから育った人材がいま日本思想史学会の中核として活躍中である。

 源先生は東北大学におられる間に著書四、編著三、研究論文四三という業績を上げておられる。もっとも油ののった時代だったと言えよう。そのためあまり外国にも行かず、それまで日本と西欧のものを主として読んでいたのに中国のもの、仏教にまで視野が拡がった。特に同じく熊本出身の仏教学者玉城康四郎先生との三年におよぶ交流を、源先生は特記しておられる。業績についてはこれも後段に譲る。

 国際基督教大学教授(のち同大学大学院教授)時代の源先生について特筆すべきことは、中国の北京日本学研究センター設立に発足当初から関わられたことであろう。この研究センターは昭和五十五年からはじまった。「対中国日本語教育特別計画(第一次五ヵ年)」のあとを受けたもので、日本語および日本文化の研究センターを目ざすものであった。

 同センターは「語学・文学」「社会・文化」の二コースを持つが、その教育、研究体制を中国の国家教育委員会(日本の文部科学省)の責任者と協議された。発足後、同センターの招聘教授として昭和六十年三月から七月まで先生の著書『近世初期実学思想の研究』や『文化と人間形成』をもとに、講義をしておられる。「中国においてすぐれた日本語教師、日本研究者を育成することが今後の日中関係の上で非常に大切」で、政治の方面ではいろんなことがあるかもしれないが「文化や人間の次元でそのような政治的動揺によっても崩れない信頼関係を結んでおく必要がある」と言われ、魯迅の『藤野先生』の例を上げておられる(「文化会議」一九八五、第一九四号)。

 国際基督教大学をやめられたあとも先生の活動はつづく。平成三年五月から十一月まで英国オックスフォード大学客員教授として六回「日本思想史の諸問題」を講義、その間にパリで開かれた「東アジアの国家と社会」シンポジウムでチェアマン、ベルリンで開かれたヨーロッパ日本研究者国際会議(EAJS)の最終コメンテーターなどをされた。

 平成七年十月には北京日本学研究センター十周年記念シンポジウムで「世界における日本学」というタイトルで基調講演、北京外国語大学から名誉教授の称号、同センターから功労者証書を受けた。平成十二年十一月には第六回東アジア実学国際シンポジウムで「日本における実学の諸形態と横井小楠の誠心的実学」という基調講演を行った。

 平成十三年十二月、日本学士院会員。そして今度の熊本県近代文化功労者。さらにこの九月宇土市名誉市民に選ばれた。日本思想史学会をはじめ多くの学会に所属しておられる。


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 これから書く先生の業績は全業績のほんの一部であり、かつその紹介も素人の私(光岡明)が可能な限り先生から頂いた解題によるものの力足らずを自覚するものであり、繰り返すけれども原本に当たられんことを願う。

 ・『義理と人情』(中央公論社、昭和四十四年六月、中国語に翻訳された。)

  伝統的社会における自我と他我との関係を江戸時代の文学作品を素材として、精神史的に追求しようとしたもの。解析に当たって時間的契機を導入し「義理的事実」と「義理的観念」を分け、それまでの先行研究の混乱を防いだ。三省堂一語の辞典『義理』  もある。

 ・『徳川合理思想の系譜』(中央公論社、昭和四十七年六月)

  日本は江戸時代の鎖国によって科学的合理的精神が育たなかったという通説に対し、江戸時代にもそれなりの科学的合理的精神があり、それは科学だけが荷なったのではなく、儒学、なかでも朱子学は合理精神の源流の一つであることを主張したもの。そのエッセンスを私たち一般の人間は『徳川思想小史』(中公新書、昭和四十八年一月韓国語に翻訳された。)で読むことができる。

 ・『文化と人間形成』(教育学全集、第一法規出版、昭和五十七年一月中国語に翻訳された。)

 ・『型』(身体の叢書2、創文社、昭和六十四年九月)

  この二冊は一まとめにして論ぜられるべき、と源先生は言っておられる。この二冊については相当に長い解題を頂いており、紙幅の関係でとても全文を紹介するわけにはいかない。寄贈先で関心ある人は読まれたい。

  『文化と人間形成』は人間形成の過程をその人が生活した「場」との関係において考察したもの。将来「日本文化と日本人の形成」という形で考察し直したいと言っておられ、期待するところ大きい。

 ・『型』は型を「人間の意識的・無意識的な動作によってつくられる形のうち、ある形が特に選択され、そしてその形を繰り返し繰り返して洗練し、その形を持続的なものとしようとする努力・精進の結果、成就し完成したいわば『形の形』というべきもの」と規定し、そこに「機能性、合理性、安定性」を見出し、一種の美があるとしている。文芸、能、武道とその追求は広範囲にわたっている。

 ・『蓮如』(浄土仏教の思想12、講談社、平成五年)

  この本は亡き母上(ハツさん)に捧げられている。蓮如については浄土信仰者、浄土真宗本願寺派組織者のどちらからか書かれることが多いのに、源先生は信仰者蓮如を核として伝道者蓮如、組織者蓮如と同心円的に書かれた。蓮如がさまざまの点で覚如を受け継ぎながらも、異義者への批判と説得の点で決定的に異なるという指摘は、研究史上画期的なこととされ『蓮如大系二巻、蓮如の教義』に採用された。

  論文については素人の私に選択のできようわけがない。以下すべて源先生の選択によるものである。番号は発表順。

 ・「徳富蘇峰と有賀長雄におけるスペンサーの社会思想の受容(上)」(『東北大学日本文化研究所研究報告』14、昭和五十三年十月、89)

 ・「徂徠・春台における天の観念と鬼神観」(東北大学日本文化研究所編『神観念の比較文化論的研究』所収、昭和五十六年二月、102) ・「盤珪における『不生』の思想」(『東北大学日本文化研究所研究報告』17、昭和五十六年三月、103)

 ・「幕末・維新期における『豪傑』的人間像の問題をめぐって」(『東北大学日本文化研究所研究報告』19、昭和五十八年三月、111) 

 ・「日本人の自然観」(『新岩波哲学講座』五巻、岩波書店、昭和六十年七月、112)

 ・「江戸後期の比較文化論的考察」(『江戸後期の比較文化研究』所収、ぺりかん社、平成二年一月、118)

 ・「横井小楠の『三代の学』における基礎的概念の検討」(『アジア文化研究』別冊2、平成二年十一月、120)

 ・「横井小楠における学問・教育・政治―『講学』と『公論』形成の問題をめぐって」 (『季刊日本思想史』横井小楠特集号、平成三年五月、122)

 ・「日本思想における国家と宗教」(『国家と宗教―日本思想論集』思文閣、平成四年二月、123)

 ・「近代日本における伝統観と西田幾多郎―エリオットの伝統論との出会い」(『思想』 岩波書店、平成七年十一月、129)

 ・「幕末日本における中国を通しての西洋学習―『海国図志』を中心として」(『日中文化交流叢書第三巻 思想』大修館書店、平成八年、130)

 ・「世阿弥の能楽論における宗教と芸術―禅との関わりを中心として」(『季刊日本思想史』52号、平成十年二月、134)

 ・「西田幾多郎の日本文化論における『物』をめぐる思想」(『思想』岩波書店、平成十 年六月、135)

 ・「熊沢蕃山における生態学的思想」(国際基督教大学アジア文化研究所編『アジア文化研究』25号、平成十一年三月、139)

 ・「佐久間象山における儒学と洋学」(『日本の科学と文明』所収、同成社、平成十二年二月、140)

 ・「横井小楠の『公』の思想とその『開国』観」(国際基督教大学アジア文化研究所編 『アジア文化研究』27号、平成十三年三月、142)

 このうちの何本かについては相当くわしい解題を頂いている。もちろん寄贈する。なかで熊本に関係の横井小楠に関する論文は研究者にとって必読のものであろう。

 紙幅が過ぎた。最後に横井小楠の共同研究者であり、元熊大文学部教授花立三郎氏のことばでしめくくりたい。

 源さんは多くの意見をとり入れ、資料を積み上げながら着実に論旨を運ぶ。文章も分かり易く、特に七〇代を過ぎてからの論文は達意の文章で、達人の域に達している。戦後、稀に見る学者で、日本思想史学会ではトップの学者である。特に儒学、朱子学をアジア全体からの視点で再評価されたことは特筆すべきである。

                   ―二〇〇二・九・九―

源 了圓 先生

源 了圓 先生

米国の日本文学者 ドナルド・キーン教授と(S40年代)

米国の日本文学者 ドナルド・キーン教授と(S40年代)



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