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植田いつ子 (うえだ  いつこ)


植田いつ子 (うえだ  いつこ)

デザイナー
昭和三年(一九二八)十月二十日生まれ
玉名市出身

業績概要

 玉名市の商家に生まれる。熊本県立高瀬高等女学校卒業後、女子師範学校に入学した夏の昭和二十年終戦を迎える。「美しいものを創る仕事をしたい」という強い思いから上京。桑沢デザイン研究所に入学。卒業後、銀座の高級洋裁店「ビジョン」でデザイナーの道を歩み始める。その後独立して、赤坂に「植田いつ子アトリエ」を構える。初めてのヨーロッパ旅行で大きな衝撃を受け、あらためて日本人であることを自覚し、日本女性の美しい心に見合った服づくりをしようと考える。ファッションデザイナーの仕事のみならず、舞台衣装など活躍の域は広く、第十九回FEC賞受賞。当時、皇太子殿下妃美智子さまのデザイナーを拝命し、現在に至るまで、皇后美智子さまのデザイナーとして二十八年。常に「志は高く」と励んできた業績は、後に続く若い人たちにとって力強いメッセージである。

 昭和二十三年(一九四八) 上京。桑沢デザイン研究所、文化学院で服飾デザインを学んだのち、「銀座レインボー」のデザイナーとして歩み始める
 昭和三十一年(一九五六) 「植田いつ子アトリエ」を開設
 昭和五十年 (一九七五) 第十九回日本ファッション・エディターズクラブ賞(FEC賞)を受賞
 昭和五十一年(一九七六) 皇太子妃殿下美智子さま(現皇后陛下)のデザイナーを拝命して現在に至る。その間、皇后さまは、国際ベストドレッサー賞を三回に亘って受けられた。
 昭和五十四年(一九七九) ミキモトと提携して「植田いつ子ジュエリー」の制作を始める
 昭和五十八年(一九八三) 作品集『植田いつ子の世界』(平凡社)刊行。この年の出版物の豪華本部門賞を受ける。また翌年には、ライプチヒにて、「世界の美しい本展」で佳作に選ばれる。
 昭和六十一年(一九八六) デザイン活動三十年記念ファションショーをホテルオークラにて開催。皇太子妃殿下(当時)美智子さまのご臨席を賜る。
 平成 四年 (一九九二) エッセー集『布・ひと・出逢い』(主婦と生活社)刊行
 平成 八年 (一九九六) デザイン活動四十年記念ファションショーをサントリーホールにて開催。皇后陛下のご臨席を賜る。
エッセー集『布に聴く』(PHP研究所)刊行
 平成 九年 (一九九七) 桑沢特別賞受賞
 平成十二年 (二〇〇〇) 日常着の着物の発表会
 平成十五年 (二〇〇三) 『植田いつ子の装いかた上手』刊行(海竜社)

皇后陛下美智子さまのデザイナー

 横 田 幸 子(熊本子どもの本の研究会 代表)

皇后美智子さまのデザイナーとして二十八年

 平成二年(一九九〇)、ニューヨークの国際ベスト・ドレスド投票委員会は、その五十周年記念の年に、モード界の優れた編集者、専門家で構成する委員会が選んだ一九八九〜一九九〇年度における受賞者リストを発表した。その冒頭、皇后さまは、次のような特別の言及(スペシャル・サイテイション)をお受けになった。

「日本の皇后さまは、皇太子妃でいらした頃より、和洋の着こなしと共に、この上なく美しい感覚の持ち主として注目を受けてこられたが、この度、世界の服装界における国際的宝(インターナショナル・トレジャー)との評価をお受けになった。」(発表文要約)

 皇后さまはそれまでにも、一九八五年と、八八年に受賞なさっており、九〇年は三度目であった。そして九一年には、ファッション・ホール・オブ・フェイム(美しい着こなしの人を収めた殿堂)にお入りになった。

 皇太子妃殿下美智子さまのデザイナーにとのお話が、植田いつ子にあったのは、昭和五十一年(一九七六)ことだった。大切なお役目に躊躇していたところ、「一度お目にかかって、その上で気持ちを決めたら」と、妃殿下にお会いする機会を御所の方が作ってくださった。

初めて皇太子妃殿下美智子さまにお会いしたいつ子は、すっかり妃殿下の人となりに打たれ、この方の前では、何も繕うことはないと素直な気持ちになり、日頃からの服作りの信念、考えをお伝えした。

 かつて初めて海外に出たとき、ヨーロッパの文化にふれ、絶望的になったこと、あらためて自分の中に流れる日本人の血を自覚し、日本の歴史や伝統を見直したこと。そして、服はあくまでも輸入文化だが、その造形フォルムの中に、自分なりの日本人の心情、美意識を採り入れていきたい、と言うことを。

 このときの妃殿下の深い洞察と、透明に澄んだ温かなお眼差し、優しさに感動して、この方のお役に立とう、少しでもお喜びいただけるような仕事をしようと、心の底から頷きお引き受けした。

 昭和五十一年(一九七六)、皇太子妃殿下美智子さま(現・皇后陛下)のデザイナーを拝命したいつ子は、その後、皇后さまの国際ベストドレッサー賞受賞により、一躍、その名が広く一般に知られるところとなり、現在に至っている。

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 子どもの頃

 玉名市の商家の六人兄姉の五番目に生まれる。子どもの頃から洋裁には興味があり、小学四年生のころ、姉に裁断してもらってブラウスを縫った。絵を描くのが好きで、店の広い土間にチョークで自分の背丈の何倍もあるようなお人形を飽くことなく描いていたり、クレヨンを混ぜて重ね、変わった色になると喜んでいた。

 いつ子が少女時代を過ごした昭和十年(一九三五)前後の日本は、ほとんどの家が質素で、つつましい暮らしであった。小学生の頃、三月三日のひな祭りには、それぞれの家のひな人形を持ち寄り、学校の講堂で祝う風習があった。友達の中には、旧家の子どももいて、立派なおひな様を持ってくる人もいたが、いつ子はいつも自分で作ったひな人形を持っていった。母や姉に余り布をもらい、教わりながら人形の着物を着付け、前の晩までかかって一所懸命に作り上げていった。千代紙で作ったこともあった。いま考えても、なかなか面白い作り方で、微笑ましい思い出だといつ子は語る。

 長年の友人だった作家の向田邦子氏とお互いの子ども時代のことを語り合ったとき、東京の山手のサラリーマンの家庭と、田舎の商家とでは、同じ時代を生きてもこんなに違うのかと楽しく語り合ったことがあった。もし自分が、東京の恵まれた中産階級の家庭に生まれていたら、この仕事を選んでいただろうか。人の思いや願いは、充たされなければ充たされないほど、深く潜行していく。遊び道具一つ自分で作らなければ何もない環境が、ひょっとしたら、自分をもの作りの人間にしたのではないかと、いつ子は振り返る

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 終戦―「求めよ、さらば与えられん・・・」

 いつ子が旧制高瀬高等女学校四年生のころ、戦争も終盤を迎え、終戦までの一年近くは学徒動員で寮生活を強いられ、家からも隔離された生活で苛酷なものだった。朝から晩まで、山中に点在した火薬軍需工場で働く毎日。何処か勉強の出来る所に行きたい、という思いでいっぱいであった。当時、上級学校で唯一動員がなかったのが女子師範学校だったので、いつ子は師範を受験し、合格者八人の中の一人に入った。師範に入学した昭和二十年(一九四五)夏の七月一日、二日は、熊本市は大空襲を受け焦土と化した。

 終戦。極度の放心状態の中で、空洞の日々が過ぎた。このままで良いのであろうかと悩み考えた末、熊本女子師範学校を退学。学校という枠にとらわれず、自由な空気の中で勉強をと考え、当時疎開していた芸術家たちの展覧会や、文化サークルなどへ積極的に出入りした。そこで、海老原喜之助や坂本繁二郎などの絵に出合い、清冽な衝撃を受ける。必死に何かを求めて、旧制五高の教授や、文化人を囲んでのさまざまな催しや勉強会にも積極的に参加した。

 好きだった文学書をむさぼるように読み、自由勝手に絵を描き、自己流で洋裁もやってみた。東京から疎開していた女流画家の千田千賀子氏にデザインの基礎を教えてもらったのもこの頃のこと。まだ上京も許されず悶々とした日々を送っていたとき、洋裁の手ほどきを受け、一番に作ったのが母のワンピースだった。母は「いつ子ちゃんが縫ったものだけん・・・」と長いこと大切にして、外出するときはよくそれを着ていたそうだ。

 戦後のその頃は、若い人だけでなく、大人も必死で、何かを志して、生きる指針を探して学んでいた。「美しいものを創る仕事がしたい。」それがいつ子の決断だった。

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 「美しいものを創る仕事をしたい」上京
 桑沢洋子氏との出会い

 昭和二十三年(一九四八)当時の東京は、洋裁学校が、雨後の竹の子のように誕生していた。熊本で、桑沢洋子の著書を読み、幅広い教養、デザインに対する造詣の深さ、ファッションの機能性まで分析した生き方に共感し、桑沢洋子氏の下で学ぶことを決意する。女性は良妻賢母が一番という両親への説得が大変だったが、兄たちも応援してくれて、洋裁のお稽古ならばと、上京の許可をようやく両親から得る。

 美しいものへの飢餓感、切ないくらいの緊迫した日々の連続の中で、「美しいものを創る仕事をしたい」との思いに駆られて、ひとり上京した。熊本から東京までは列車の旅であった。鹿児島本線「霧島」に乗り、特急で二十八時間半もかかった。黒砂糖を持たせてくれた母のことがしきりに思い出されるという。

 桑沢洋子氏を訪ね、桑沢デザイン研究所に入学。洋裁学校というより、デザイン塾といった感じで、錚々たる講師が名を連ねていた。彫刻家の佐藤忠良氏や舞台美術の朝倉摂氏にデッサンを学び、グラフィックデザイナーの亀倉雄策氏をはじめ、画家、建築家、音楽家など幅広い講師陣の講義を受けた。

 授業は、デッサン、デザイン理論が中心で、縫うことなどの実習面はすべて宿題。それだけでも大変だったが、夜は美術研究所で、前衛画家の阿部展也氏や益田義信氏等のもとでクロッキーを学び、土曜日には文化学院のデザイン科に通い、坂倉ユリ氏の自由で広い思想の下で、のびのびしたデザイン教育理念を学び、さらに文学のグループにも参加、戦時中の空白を取り戻そうと必死だった。

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 デザイナーとして出発
 銀座「レインボウ」の頃

 卒業を前に、いつ子の気持ちは激しく揺れていた。実技で一ミリ、二ミリの誤差もなく縫うことを求められ、こんなに窮屈に考えなければならない仕事は自分には出来ない、と絶望しかけ、師の桑沢洋子氏に心の内を打ち明けた。

 そのとき桑沢氏は、「同じ服を作るのでも、人にはそれぞれ違った能力があるものです。縫うことに力を発揮する人と、デザインなどの感覚面で力を発揮する人、または、服に付属するものを作る人、企業の中にあって企画を推進する能力を持っている人など、服作りの仕事にもいろいろあります。縫うことに向かないからと絶望することはありません」と、いつ子を励ました。
また、「人間には、いろいろなやり方がある。初めから働く女性の服を作ることに意欲を持つ人もあれば、うんと綺麗で贅沢な服を作る人もあり、紆余曲折の後に、また違う道を選ぶこともある。あなたの場合は、最初に、現在の日本で一番贅沢な環境を経験してデザイナーになることね。
そして五年後、十年後に、あらためて自分の進むべき道を自分で見つけて選んでもいいんじゃない」と、自分の主義主張と違う個性の生徒に対しても、温かく指導した素晴らしい教育者だった。

 桑沢氏は、「あなたはデザイナーになる方が向いていると思うから、それにふさわしい所を探してあげましょう」と、昭和二十七年、銀座の高級洋裁店「ビジョン」を紹介し、ファッション界では、桑沢とは全く対極にあるような、その主任デザイナーのジョージ・岡氏にいつ子ことを託した。こうして、いつ子はデザイナーの道を歩み出した。そして岡氏は、「ビジョン」から「レインボウ」に移るときも、いつ子を一緒に連れて行った。

 当時、まだ駅や街の歩道はデコボコだったにもかかわらず、銀座の高級洋裁店「レインボウ」は、店内に一歩入ると別世界だった。黒い大理石の床、白い革張りに金の鋲を止めた壁をめぐらした、贅沢で優雅な雰囲気の店だった。そこでは、それまで手にとることもできなかった贅沢な布地やレースをふんだんに使うことが許され、如何に美しい服やドレスを作るかに専念する日々だった。自分の僅かな給料では、そこに並んだ布地を一メートルも買えないとき、ここでの仕事は、実験工房のようなものであり、毎日が未知なる発見であり、喜びであった。

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 「植田いつ子アトリエ」開設

 「このままでいいのだろうか? こういう店で働いていれば、どのような注文でもお客様として受けなければいけない。こんな服作りを続けていていいのだろうか?」贅沢な店「レインボウ」と、世間一般との隔たり。いつ子は、世の中の矛盾に悩む日々が続いた。

 昭和三十年暮れ、多忙な日々の連続に、いつ子は病に倒れる。上京以来の疲れが一度に出たのか、起きあがれない状態になる。レインボウでの仕事上の疑問に悩んでいたいつ子は、これを機に一旦仕事を辞め、出直すことを考える。

 昭和三十一年六月、新しい出発。赤坂の二階家の一室で「植田いつ子アトリエ」の看板を掲げた。レインボウ時代の馴染みの客には一切声をかけず、全くのゼロからやっていこうと心に決めた。それでも何人かの客が人づてにアトリエまで訪ねてくれたのには感激した。同時に、私生活でも、デザイナー仲間の一人と結婚した。そして十七年後、離婚という辛い体験もしなければならなかった。

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 はじめてのヨーロッパ旅行

 いつ子がデザイナーを天職と考えるようになるうえで、大きなきっかけになったのは、昭和二十八年(一九五三)、クリスチャン・ディオールのファッションショーだった。そのショーから十年目の昭和三十八年(一九六三)、初めてのヨーロッパ旅行が実現した。
旅行中、いつ子は精力的に見て回った。美術館や史跡、教会など西欧の芸術作品に直に触れ、外観の大きさに圧倒され、中にはいると、すみずみまで絵画や彫刻に埋め尽くされた天井に息をのみ、息苦しさを感じ、崩れ折れるほど疲れてしまった。少しの余白のない感覚にも耐えられなかった。西欧のあくことなき技巧と精緻な描写、日本の描きすぎることを拒む感覚。この対極にある二つの文化の大きな隔たりに疲れつつも魅了されるという不思議な体験をした。自分の中に脈々と流れている日本人の血を自覚したのも、初めてのヨーロッパ旅行だった。

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 日本人のこころで作る

 いつ子は、ディオールやジバンシィの見事なフォルムを目のあたりにして、衝撃を受けた。どうすれば女性の体をこんなに美しく包むことができるのか。モデルの着た服を何着も譲り受け、バラして、服を平面的にではなく、立体的に把握する欧米の感覚を理解しようとした。しかし、フォルムづくりや技術を移入するだけでは意味がない。それでは着物の土壌に洋服の苗を植えることになる。美しい花を咲かせるために、土壌を作った日本の文化や歴史をもっと深く知ろう。それがヨーロッパの旅から持ち帰った宿題だった。

 それからというもの、『徒然草』『源氏物語』などの古典文学や世阿弥の『風姿花伝』など、繰り返し読むようになった。デザイナーの個性は、誇張と抑制のバランスのとり方にある。お能は演者が豪華な衣装を着け、簡素な舞台の上で動きを極端に抑えて舞う。『風姿花伝』はいつ子にとってバイブルという。静かな仏像が好きで、奈良や京都にはよく出掛ける。仏像の衣紋(えもん)のゆったりとした流れや、襞の織りなす光と影の陰影には時の流れを忘れさせるものがある。大好きな仏像を訪ね歩きながら、日本人の服は日本人のこころで作ればよいのだと気がついた。

 いつ子の格調高い、シンプルなデザインと色調による、優雅なドレープのデザインの美しさには定評がある。布に逆らわず、女性の繊細な体に美しく馴染むように考えて、自然に微妙な陰影ができるドレープのドレスをデザインする。

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 オートクチュールと既製服

 昭和三十九年(一九六四)、初めてオートクチュールコレクションを開催。以来、平成十二年(二〇〇〇)まで、毎年「植田いつ子コレクション」を発表し続けてきた。コレクションを毎年発表しているデザイナーは数少ないという。

 昭和四十年代の半ば、通勤時間帯の山手線に乗り、OL達の服装を見て驚いた。働く女性だというのに、誰もが当時流行のサイケファションを身につけ、つけまつげをしている。次の日からさまざまな通勤電車に乗ってみたが、結果は同じ。当時は女性が流行に支配されすぎ、きちんと着られるジャケットすら売られていなかった。このままでは日本女性は大変なことになると、友人がやっているJUNで「J&R」という働く女性を対象にした既製服を作るようになり三十数年になる。いつ子の名前は一切出さないと言う約束で。既製服は、オートクチュールと同じようにかけがえのない仕事である。

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 舞台衣装作りの魅力

 最初に舞台衣装の話がきたのは、昭和四十九年(一九七四)。芥川比呂志氏の依頼で三島由紀夫の『サド侯爵夫人』の衣装を担当した。この一作で芝居の面白さにとりつかれてしまったいつ子は、その後、シェークスピアの『マグベス』『オセロ』『ハムレット』などの翻訳古典から、泉鏡花の『夜叉ヶ池』、梅若六郎の創作能の衣装などをつくりつづけ、いずれも高い評価を受ける。これまでに衣装を担当した作品は四十本に上る。

また、作家水上勉氏との出会いから、竹人形劇の衣装のみならず、人形も手がけることとなり、水上勉の軽井沢の工房に何十回と通って、無心に作った。その数も七十数体を数える。こうして、いつ子の仕事は、ファッションデザイナーの域を超えてあらゆる領域に広がっていった。

 芝居は各分野のプロの集団で、ひとつの作品を創りあげる共同作業。集団の中で他の人の意見、意志をくみ取り、協調しながら自分の意志を表現する修行の場。舞台の仕事は、いつ子にとって、もう一度自分の感性、感覚を濾過して見る作業であり、苦しいけれど愉しく魅力があり、いつ子を豊かにしていった。

 また舞台で、板東玉三郎氏をはじめ多くの役者、女優との仕事は、人間の真の姿に接する喜びである。デザイナーになったのは、「人間が好きだから、人と密接に関わることがしたかったから」と、友人に語っている。

 昭和五十年(一九七五)、一貫して優雅な服づくりと舞台衣装の活躍に対しての、第十九回日本ファッションエディターズクラブ賞(FEC賞)受賞する。

 翌年、当時皇太子妃殿下美智子さまのデザイナーを拝命し、現在に至る。その間、冒頭に紹介したように、皇后陛下は、国際ベストドレッサー賞を三回受けられた。

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  高い志をもってー私の服づくり

 服という西欧のつくりあげた定型は借りるとしても、外型のみの変化を追うものから、「美の本質」は生まれてこない。外国の優れた部分は取り入れ、日本人に合わない部分は捨てる。

 流行は繰り返されると言われるが、繰り返されるのではない。人が着る衣装としての本質的なことは変わらずに、営々と底辺に流れつづいている。どんなに表面は変化しても、深く底辺に沈殿したデザイナーの思想と姿勢は変わってはならない。日本人は大昔から、外国の文化を賢明に採り入れ、取捨選択してきた歴史がある。明治になるときも和魂洋才といって、魂まで洋風にしなかった。ところが戦争に負けてからは、戦前を否定するあまり、洋魂洋才になってしまった。

 西洋も東洋も世界に境目がなくなった現在であるからこそ、欧米にただ同調し、情報を鵜呑みする不自然さを自覚することが大切。服を生み出し育ててきた西洋文化に敬意を払いながらも、日本人の毅然とした誇りを持ち、日本人の美意識で服を着こなすことである。

 桑沢デザイン研究所で、学生が、ダラシナ系ファッションのような作品を出してきても、頭から否定することはしない。これは美しい、素晴らしいと、心から思うかを聞いて、答えは自分で出させるようにしている。だらしなくでもいいと本気で思う学生はいない。ものには品格が大切である。人には志である。

 毎年開催してきた「植田いつ子コレクション」は、平成十二年(二〇〇〇)で、しばらく休むことにした。そしてその年の秋には、新たに伝統のきものを現代の視点で考える和服の発表会をした。

ファッションの世界では、完全にオリジナルなデザインというようなものは有り得ない。最新のデザインといっても、長い歴史と文化の過去に原型(もとがた)がある。そのエキスを凝視して、現代の感覚にあわせて調和を見出すのがデザイナー。

デザイナーに最も要求されるのは人間性。そして人間への愛情とも言える。「何を求めて生きるか、志の高さは作品に表れる。高い志を持って生きることが大切」と語る。


※原稿執筆にあたり下記の資料を参考にいたしました。

『布・ひと・出逢い』植田いつ子著 (集英社文庫)

語る「植田いつ子の世界」(にゅうすらうんじ 全4回)朝日新聞記事 一九九八年二月二十三日〜二十六日

『ぷりいず』2000年5月号 インタビュー「植田いつ子さん」 聞き手/佐々井 啓

『皇室アルバム』Vol10

植田いつ子氏

植田いつ子氏

30周年コレクション 皇后様ご臨席賜る(1986年)

30周年コレクション 皇后様ご臨席賜る(1986年)



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