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石牟礼 道子 (いしむれ みちこ)


石牟礼 道子 (いしむれ みちこ)

小説家
昭和二年(一九二七)三月十一日生まれ
河浦町出身

業績概要

 水俣を拠として創作活動を続けている小説家、詩人。
 生後まもなく水俣へ移住。水俣実務学校卒業後、田浦小学校に代用教員として勤務。戦後、退職して結婚。家事の傍ら短歌を作る。
 昭和三十三年、谷川雁主宰の「サークル村」に参加して、本格的な文学活動を開始。昭和四十年、「海と空のあいだに」の連載を始める。この作品を改題して世に問うたのが代表作『苦海浄土』である。水俣病患者の苦しみと魂の叫びを描写し、大きな反響を呼び、水俣病問題が社会的に注目される契機になったと言われる。
 その後も、『天の魚』、『椿の海の記』、『西南役伝説』、『アニマの鳥』(『春の城』改題)等を著し、旺盛な作家活動を続けた。社会の急速な近代化によって、自然環境や人と人とのつながりが激しく変化する中、自然と共生する人間の在り方を主題とする石牟礼文学。近年、あらためてその芸術性と社会性が評価されている。
 今年四月の全集刊行に伴い、「苦海浄土」三部作が完結(第一部『苦海浄土』、第二部『神々の村』、第三部『天の魚』)。
 『新作能 不知火』の奉納能公演が水俣市で今年八月開催された。

  昭和十八年   水俣実務学校卒業
            代用教員として田浦小学校勤務(〜昭和二十二年)
  昭和三十三年  谷川雁主宰の「サークル村」に参加
  昭和四十年  「海と空のあいだに」を『熊本風土記』に連載開始
  昭和四十四年 『苦海浄土』(「海と空のあいだに」改題)刊行
  昭和四十五年 『苦海浄土』が第一回大宅壮一賞に決まるが、受賞辞退
  平成五年   『十六夜橋』で紫式部賞受賞
  平成十四年  朝日賞受賞
  平成十五年  『はにかみの国』で芸術選奨文部科学大臣賞受賞


石牟礼道子

                 渡辺京二

 
 石牟礼道子といえば、まず念頭に浮かぶのは『苦海浄土』であろう。これは、彼女が最初に出した本であるが、折柄社会問題となった水俣病の実相を描破した作品として世評を呼んだだけでなく、今でも毎年版を重ねる現代の古典となっている。
 『中央公論』や『文藝春秋』のような大雑誌で、近代日本の名著××点とか、戦後最も影響を与えた書物十冊といった企画が試みられると、必ずといってよいほど『苦海浄土』の名があげられる。それだけこの本のインパクトが強烈で持続的であるわけだ。
 むろん石牟礼は『苦海浄土』だけの作家ではない。当初は社会派、記録文学作家といったふうに見られていたが、その後続々と発表された作品によって、彼女が日本古典文学の伝統に立ちながら近代文学の世界を拡張し、世界的レベルで文学の新たな可能性を示す醇乎たる文学者であることが、次第に認められるようになった。
 彼女の作品に説教節や能に通じる古典的夢幻性が濃厚なのは誰しも認める事実だけれども、一方、現代ラテンアメリカ文学、たとえばガルシア・マルケスのような土俗性を帯びた前衛文学との相似を指摘する声もある。ソローを原点とする環境文学、ネイチャー・ライティングの現代的事例として評価する見方もあって、いずれも彼女の創造の含蓄のゆたかさを示すものだろう。
 筆者に言わせれば、石牟礼の作品は万葉以来のこの国の文学の感性を純粋にひき継いでいて、その意味では伝統的であると同時に、一方ではこれまで日本の近代文学に出現したことのない、あえていえば不思議な文学なのである。
 そのことは近作の新作能『不知火』によく現れている。詞章を読めばわかるように、この作品は世阿弥、あるいは新古今以来の幽婉なシンボリズムで書かれている。しかし、主題は不知火、常若の姉弟がこの世に充満した毒をさらえて死ぬという、途方もないアクチュアリティを備えていて、こういう現代の現実的課題が幽幻な能の詞章のうちに消化されるとは、まさにやってみなければわからぬ奇蹟だったのである。
 『不知火』は二○○二年七月、宝生能楽堂と国立能楽堂で上演され、○三年八月には熊本県立劇場で第三回公演、今年(○四年)八月には水俣で奉納公演、さらに十月には東京で第五回公演が行われた。水俣病の爆心地といわれる水俣湾埋立地での公演は、水俣病で倒れたもろもろの霊を招いて、さながらワーグナーの舞台を思わせ、石牟礼文学の本質、すなわち鎮魂と祝祭をまざまざと形象化するものとなり、新聞・テレビによってひろく全国に報道された。
 水俣奉納公演は折しも、藤原書店による『石牟礼道子全集』刊行と重なった。全十七巻、別巻一の堂々たる構成である。生前における全集刊行は、作家の地位確立の証しである。これを機に石牟礼文学はいっそうひろく世に知られるであろうし、またさらに、衰えを知らぬ創造力を示しつつある彼女の新たな展開が期待される。


 石牟礼道子は一九二七年三月一一日、天草の宮野河内(現河浦町)で生まれた。白石亀太郎と吉田ハルノの長女である。ハルノの父吉田松太郎は当時石工の棟梁として、道路工事、港湾建設を請け負う一方、回船業も営むなど手広く事業を展開しており、白石亀太郎は松太郎のもとで帳付けを勤めるうちにハルノと結ばれた。宮野河内は松太郎が請け負った仕事先で、そこに両親が滞在中に道子が生まれた。吉田家は水俣町浜に住居を構えていて、道子は出生後三ヶ月でその家へ戻った。
 天草は両親が仕事で滞在中に生まれたというだけの仮そめの地であるのに、彼女は成人後ずっと天草生まれと自覚し、人にもそう語った。というのは祖父松太郎と母ハルノは天草上島の下浦、父亀太郎は同下島の下津深江の出身で、彼女の家には天草の親族がしばしば出入りし、彼女自身天草に深いえにしを覚えていたのである。柔らかでみやびやかな天草弁は彼女のからだ奥深く染みこみ、後年の創作の中に生かされることになる。
 彼女の家は三歳のとき栄町へ移った。栄町の家は松太郎の事業の本拠地であり、住みこみの石工の徒弟やら、通いの手伝いのおばさんたちでいつも賑わっていた。通りには女郎屋や髪結い店があって、幼い道子は女郎屋に上がりこんで女郎さんたちに可愛いがられたり、髪結いさんの家で髪結うさまを飽きもせずに眺めこんだりした。
 栄町は新興の活気溢れる通りだった。水俣は化学工業のさきがけ日窒(現チッソ)の城下町として発展の途上にあり、日本資本制がそれまで狐や狸と共棲して来た民話的な農村を浸蝕して、近代の狂想曲を奏で出す過程のさなかにあった。村が町になるとはどういうことか、道子は幼い感覚でたしかに嗅ぎとった。
 彼女を可愛がってくれた若い女郎が中学生に刺殺されるという事件もあった。この事件は幼な心に深い傷あとを残し、彼女は後年になって度々この思い出を文章化することになる。
 栄町時代は家がゆたかなこともあって、おおむね幸せな記憶にみちていたが、ただひとつ幼な心を翳らせる存在があった。祖母モカである。彼女は早くから精神を病んでいた。
 松太郎は事業の才があるとともに、石工として芸術的才能もあった。仕事柄図面を引かねばならぬが、その傍ら筆ですらすら描く仏像に道子は魅かれた。「上品好き」で常に白足袋を履き、道子の誕生祝いにはわざわざ長崎からとり寄せた。「人は一代、名は末代」が口癖で損得を度外視する。娘婿の亀太郎の目にはそれが放漫に見えた。
 亀太郎が妻ハルノを長い間入籍しなかったのは、そんなことにこだわらぬ当時の習慣もあったろうが、ひとつには吉田家の入り婿のようになるのを嫌ったようだ。道子が学校卒業まで吉田姓を名のったのはそういう事情による。亀太郎は謹直であるとともに、激しい気性と独立心の持ち主で、道子は反発することもあったが、根本的な倫理感覚の点で父から多くのものを受け継いでいる。
 母ハルノは対照的に人の悪口は一切言わぬ春風のような人柄で、何も知らぬふりをしながら見るところはちゃんと見ている人だった。
 祖父の事業は彼女が小学二年の時に破産する。道子一家は祖父と別れて水俣の北はずれ、俗称とんとん村に住んだ。家は父が手作りで建てた。そういう器用な人だったのだ。モカも道子一家と暮らした。境遇は一変して、貧しい毎日だった。
 しかし、道子の心はゆたかだった。水俣川河口がすぐそばで、足をのばすと無数の貝類が住む磯があった。不知火の海辺で彼女は遊び暮らした。母なる海として不知火は彼女の原点となる。精神を病んだ祖母に、道子はいつもつきそっていた。「狂女」はつねにこの世ともうひとつの世のあわいを往き来している。「狂女」とともに在るのはつらいことであるとともに、もうひとつの世に目を開くよすがでもあった。学校の成績は終始トップクラス。先生たちにも可愛がられた。彼女の下には弟三人、妹一人が生まれている。長女としての責任もある毎日だった。
 小学校を出たら紡績工場の女工になるとばかり思っていた彼女は、先生のすすめもあって三年制の実務学校(現水俣高校)に進んだ。ここでも学業優秀。しかし、勉強の苦手な学友に慕われたというのも彼女らしい。この頃から短歌をを作り始めた。
 日米戦争が二年生のときに始まっていた。卒業すると教員養成所に入り、十六歳で代用教員として田浦小学校に赴任した。男たちは戦場へ駆り出され、村は荒廃していた。学校で説かれる必勝の精神、雪の日に破れ靴の生徒たち。道子の心は痛むとともに、「聖戦」に深い疑問を抱いた。
 そして敗戦。その直後、彼女は水俣へ帰る列車の中で、戦災孤児の少女と出会い、自宅へ連れて帰ってひと月余り世話をした。翌年、『タデ子の記』と題してその少女のことを書く。長く筐底に秘められたこの作品こそ作家道子の第一作である。
 一九四七年、学校を退職して石牟礼弘と結婚。弘は中学教師であった。翌年長男道生誕生。道子は教師時代に詩と短歌を作っていたが、五一年頃から新聞や雑誌に短歌を投稿するようになった。やがて歌人の蒲池正紀に見出され、同氏の主宰する歌誌『南風』の会員となる。
 彼女は『南風』誌上で頭角を現し、一九五六年には『短歌研究』新人詠に入選するなど、有望な新進歌人として嘱望されるようになる。しかし彼女は次第に歌にあきたらなさを覚え始めていた。
 一方、弘と道子の家には、チッソの若い労働組合員などが集まり、いわゆるサークル活動が始まっていた。五四年には当時水俣の生家で療養していた詩人谷川雁と知り合った。詩と散文に彼女の関心が移り、やがて雁が北九州を根拠に創刊した『サークル村』に参加、五九年には共産党に入党した。もっとも彼女が共産党に入ったのは「雁さんのような詩人たちの集まりと思ったからだ」とのことで、翌年早々党を離れている。だが歌人道子はこの頃から大きく変貌する。
 谷川雁は日本近代の底部へ深々と降りてゆくことを唱えた天才的な詩人だった。道子は彼の示した方向に激しく触発された。都会を中心とする近代化の蔭で、底辺の民が身もだえするドラマが彼女の関心の軸となった。水俣病の患者の聞き書が始まった。『サークル村』六○年一月号に発表された『奇病』こそ、のちの『苦海浄土』の最初の一篇である。
 東京の出版社から追々原稿の注文が来るようになった。『西南役伝説』が最初に発表されたのは『思想の科学』六二年一二月号である。西南戦争を経験した故老からの聞き書で、彼女の創作はこのように民衆史の記録といったスタイルで始まる。一九六六年には『熊本風土記』に『苦海浄土』の初稿『海と空のあいだに』を連載した。一方、彼女には女性史学を創った高群逸枝への深い傾倒が生まれていた。逸枝の夫君橋本憲三の知遇をえて、亡き逸枝の仕事場「森の家」に滞在したのもこの頃のことである。憲三はのち水俣へ移住し、道子の協力を得て、『高群逸枝雑誌』を出すことになる。
 創作に専念したい、また勉強をしたいとこの頃彼女は強くねがった。そのために主婦業をやめて家を出たいと考えたこともあった。だが、事態の変化は向こう側からやって来た。水俣病が折から社会問題化したのである。一九六八年、彼女は水俣の友人たちと水俣病対策市民会議を作り、患者への支援に乗り出す。
 『朝日ジャーナル』がそうした彼女に注目する。六八年同誌に『わが不知火』を連載したのを皮切りに、『菊とナガサキ』『阿賀のニゴイが舌を刺す』など独特の語り口をもつルポルタージュを発表、道子はようやく念願の著述による自立の途を歩み始めた。
 決定的な転機は翌六九年に訪れた。『サークル村』以来の友人上野英信の尽力によって『苦海浄土』が講談社から刊行されたのである。全国的な公害問題の盛り上がりという背景もあって世評は高く、同書には熊日文学賞、大宅壮一ノンフィクション賞(第一回)が与えられた。彼女はいずれも受賞を辞退した。患者の苦患を語った同書によっては賞は受けないと固く決意していたのである。
 一方、水俣病患者互助会の中にはチッソを相手どって裁判を起こそうという動きがあり、ついにこの年六月、二十九世帯が熊本地裁に出訴した。市民会議の一員として道子はこの動きに深く関わっており、熊本市の友人に呼びかけて水俣病を告発する会(代表本田啓吉)を結成、こののち七三年の患者勝訴に至るまで、患者家族と文字通り行をともにすることになった。
 道子の家は患者支援活動の拠点となり、全国から訪れる支援者や報道関係者でごった返した。新聞、雑誌からの原稿注文が殺到、テレビ出演、講演、会議、集会など席の暖まる暇もない状態が続いた。この状態は七○年にピークに達し、道子は巡礼姿の患者たちとともにチッソ株主総会に出席するなど、水俣病闘争のシンボル的存在となった。
 しかし道子は社会運動の闘士ではなく、あくまで詩人だった。彼女はタデ子の例でわかるように、ひとの受難に深く感応せずにはいられぬ魂の持ち主で、その魂はひとの世の成り立ちとは何か、この世界の根源に在るものは何かと問うて悶えた。水俣の庶民世界では、他人の苦しみを見ておれない性分の人間を「悶え神さん」と呼ぶ。彼女は「悶え神」として水俣病問題に関わったのである。しかし彼女の「もうひとつのこの世」のイメージは強烈なインスピレーションとなって運動をつき動かした。水俣病闘争をユニークに彩った「水俣死民」のゼッケンや黒の「怨旗」はいずれも彼女の創案である。彼女が水俣病患者運動の巫女とみなされたのも当然といえばいえた。
 一九七一年、患者運動に新しい動きが生じた。父を激症患者として失い、自身はまだ患者に認定されていなかった川本輝夫が、訴訟派患者や市民会議とは別に未認定患者の発掘に乗り出していたのである。川本は発掘した未認定患者とともに、裁判とは別にチッソに対して直接交渉を求め、やがてこの年の暮には水俣病を告発する会の支援を受けてチッソ東京本社で坐りこみを敢行した。
 道子は川本らの行動の重大な意味にただちに気づいた。これこそ近代的諸制度に頼らぬ生活民の自立を試行するものだ。本社坐りこみはやがて本社前にテントを設営しての長期戦となり、道子は翌七二年を患者とともにほとんど東京ですごした。この間、急性肺炎を起こして病院にかつぎこまれることもあり、悪化していた白内障手術を受け、左眼は失明状態になった。夫弘を始め家族は道子の行動をよく理解して支えた。父亀太郎は裁判提訴の年に逝っていた。お前のやろうとしているのは昔なら打ち首獄門ものだ、その覚悟はあるのかと言い残して。
 運動で怱忙を極める一方、道子は旺盛な執筆活動を続けた。新聞、雑誌にエッセイを発表するとともに、七○年には井上光晴の主宰する『辺境』に『苦海浄土・第二部』の連載を開始し、七二年には『展望』に、川本らの闘いを描いた『天の魚』(『苦海浄土』・第三部)を連載、二年後筑摩書房から単行本になった。彼女のこうした水俣病に関する文章は、たんに社会問題にとどまらぬ事件の本質を世に知らしめるうえで大きな功績があった。
 しかし、彼女は水俣病の作家にとどまるものではなかった。彼女にはもっと広い世界との関わりで、おのれの生命の根元を表現しようとする衝動があった。執筆活動に専念するために、七三年裁判勝訴のあと、熊本市薬園町に仕事場を設けた。自伝的名作『椿の海の記』(朝日新聞社)はここで書かれた。この年彼女はアジアのノーベル賞といわれるマグサイサイ賞を受けるためにマニラへ渡った。
 一九七八年には熊本市健軍にある真宗寺の住職佐藤秀人氏の知遇を得、同寺脇の借家に仕事場を移した。もともと親鸞の和讃に深く心魅かれる彼女であった。真宗寺の行事のために独特の表白文『花を奉るの辞』を書いた。
 この仕事場では『おえん遊行』(筑摩書房)、『あやとりの記』などの長篇小説が生まれた。エッセイ集の刊行も多く、幻想的で民俗的な独自の道子文学の世界が展開された。沖縄の始原的な宗教世界への関心が深まり、与那国島や久高島に足を運んだのもこの時期である。八六年には西日本新聞社の西日本文化賞を受賞した。
 水俣病との関わりはむろん続いていた。川本輝夫がひきいる患者運動に彼女はつねに伴っていた。しかし、彼女の心は悲劇の舞台となった不知火海沿岸の世界にとらわれていた。水俣病がほろばしたのはいかなる世界であったのか、それを解明するために彼女は色川大吉、鶴見和子らの研究者の協力を求め、「不知火総合学術調査団」が生まれた。
 一九九二年には、祖父祖母をモデルにした『十六夜橋』が完成し、径書房から刊行されて紫式部文学賞を受けた。自伝的連作のひとつの頂点である。
 一九九四年には熊本市湖東に居を移した。近くの江津湖までよく散歩を試み、湖の生む幻想が彼女の作品を彩るようになる。ここでは長篇小説『天湖』(毎日新聞社)、『水のみどろの宮』(平凡社)が書かれ、さらに初めての新聞連載小説『春の城』が生まれた。患者たちとチッソ本社に坐りこんでいる時期に生まれた構想で、いつかは書きたかった主題だった。その主題とは島原・天草の乱。『アニマの鳥』と改題して一九九九年に筑摩書房から刊行された。七○代を迎えて、創作力はいささかの衰えも見せていなかった。
 道子は水俣病事件と深く関わるなかで、浜元フミヨ、田上義春、川本輝夫といった患者の人格から多くの霊感を得て来た。そのいずれもが世を去り、水俣病問題自身が最終処理という言葉に示されるように風化にさらされる頃、彼女の前に大きく姿を現したのが若き漁師緒方正人だった。
 緒方は父が激症患者として死亡後、自らも認定申請して患者運動の先頭に立ってきた。だが裁判や行政との交渉を重ねるうちに転機が訪れた。すべてが金の問題として制度的に処理されてゆくありかたが突然いまわしいものに見えた。彼は認定申請をとりさげ、従来の運動と絶縁して、今日の文明を根本的に問う本願の会を、杉本栄子など数名の患者と結成した。道子の名もむろん発起人の中にあった。道子は正人の行く手に、水俣病患者運動の新たなよみがえりを見た。
 晩年のみのりが道子を訪れようとしていた。二○○○年にはかねて尊敬する白川静との対談が叶った。二○○一年には新作能『不知火』を書き、冒頭に述べたように大きな反響を得た。二○○二年には朝日賞を受け、翌年には詩集『はにかみの国』が芸術選奨文部科学大臣賞にえらばれ、二○○四年に刊行開始された全集第三巻に『苦海浄土・第二部』が初めて収録され、『苦海浄土』三部作の全貌が明らかになった。
 道子は文学者仲間や編集者たちとの交遊のうちに一生を送るふつうの文学者とは、およそことなる生涯を過ごしてきた。ものごころついた時から彼女は孤独感につきまとわれ、それゆえにこそ文学的表現の途へ進んだのであるが、一方彼女は絶えず人びとの輪の中にいた。文学的思想的な自己形成が谷川雁の指導するサークル運動の中で行われただけではない。水俣病運動に身を投じた青年たちはみな道子を敬愛した。真宗寺という特異な寺に集う若者たちもみな道子を慕った。彼女にとって孤独な執筆の刻と、若者たちに囲まれる嬉戯の刻とは、異質のようでありながらともに欠かせない人生の要件であった。
 熊本市に人間学研究会という小さな集まりがあって、その一会員が給料を営々と積み立てて、ついに一軒の家を立てた。むろん研究会の会議室も設けたのだが、彼はそれにとどまらず道子がその家を仕事場として用いてくれることを望んだ。二○○二年から、彼女は上水前寺のその家に住んで、最後のいくつかの仕事にとりかかろうとしている。二年前から彼女は歩行や起居の不自由を感じ始め、パーキンソン病の診断が下った。しかし仕事場には絶えず友人や介助の人々が集まり、道子は彼女のなしとげた仕事を尊敬する彼らに見まもられつつ、闘病と執筆の毎日を送っている。
 道子の創造した作品は、これまでの日本近代文学になかった独特の構造と味わいをもった文学である。しかしそれだけではない。最近石牟礼道子研究に専念している熊本大学教授岩岡中正は、道子の文学の文明論的な意義について、「近代の認識論やひろく近代知によって失われた全体性、複雑性、関係性、多様性、内発性」を回復しようとするのが石牟礼文学の志向であり、それはまさに彼女における「脱近代の知の創出を示すもの」だと述べている。彼女の創造した世界はこのように様々なゆたかな解釈の可能性をはらみつつ、私たちの前に置かれている。   (文中敬称略) 

石牟礼道子 氏

石牟礼道子 氏



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