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光岡 明 (みつおか あきら)


光岡 明 (みつおか あきら)

小説家
昭和七年(一九三二年)十一月三日生まれ
熊本市出身 故人

業績概要

 熊本在住の直木賞作家で、初代熊本近代文学館長をつとめた小説家。
 熊本日日新聞社時代から小説を書き始め、昭和五十年代に「いづくの蟹」「奥義」「湿舌」「草と草との距離」で四度芥川賞にノミネートされる。
 昭和五十七年に初の長編小説「機雷」で直木賞を受賞。その後も市井の人々の心に潜む闇を精緻な筆致で次々と描き、作家としての地位を不動のものにした。
 昭和六十年、創設されたばかりの熊本近代文学館初代館長に就任し、熊本の文学の興隆に尽力した。その一方で、県文化振興審議会会長をはじめ県文化財保護審議会副会長、肥後の水資源愛護基金常務理事など数々の委員を兼ね、地域社会の文化育成に貢献した。
 漱石来熊百年を記念して設けられた「草枕文学賞」でも、企画運営当初から中心的役割を果たし、熊本から全国に向けての文化発信を行った。

 昭和三十年  熊本日日新聞社入社
 昭和四十一年 熊本日日新聞東京支社編集部長就任
 昭和五十一年 「いづくの蟹」が芥川賞候補となる
 昭和五十二年 「奥義」、「湿舌」がそれぞれ芥川賞候補となる
 昭和五十三年 「草と草との距離」が芥川賞候補となる
 昭和五十七年 熊本日日新聞社論説副委員長就任
 同年     「機雷」で第八十六回直木賞受賞
 昭和五十九年 熊本日日新聞情報文化センター社長就任
 昭和六十年  熊本近代文学館初代館長就任
 平成十六年 没


光岡明の風景 その生涯と作品

                     熊本日日新聞社編集委員 井上智重


 古い記憶は風景として残る。
 光岡明にとっての最初の風景は、そう広くもない庭があって、向こうは土塀で仕切られ、廂の下にのぞくと、空は見事までに真っ青で、視野の左端に日の丸の旗がはためいていた。
 昭和七年十一月三日、上益城郡秋津村沼山津に生まれた。いまは文化の日だが、明治節であった。光岡は、自分が誕生した日の風景だと信じ、そう語っている。
 昭和七年は、満州国が建国された年だ。
 父均は士官学校を出た職業軍人で、母ヤスは、宇土半島の不知火海に面した宇土郡大岳村御船(現宇城市三角町)の旧家、高瀬家の長女であった。両親を結びあわせたのは、均の先輩の軍人だった。長男だった均には、まだ幼い弟や妹たちがいたが、相次いで父、母が亡くなった。熊本の十三連隊に転勤させてもらい、妻をめとり、一家をなした。はたち前に嫁いできたヤスは、夫の弟や妹たちの面倒をよくみた。
 沼山津は、横井小楠が閉居した村であり、私塾四時軒を開いた。小楠が出入りした弥富家ほどの豪農ではなかったが、光岡家も大きな百姓家であった。光岡の叔母長谷水美は「曽祖父の善二郎さんは、小楠先生に付いてまわっていたそうです」と語る。
 沼山津の均のもとに、渡鹿の連隊から当番兵が迎えに来る。自転車に乗れないので、それを引きながら、やって来る。なんとも気の毒だ。それに妹たちを女学校に通わせる必要も出てきて、新屋敷傘三丁目に家を借りて、移った。光岡は長男で、四歳違いの弟が生まれた。きょうだいはそれだけ。碩台幼稚園に通った。
 二・二六事件後による大幅人事で、東京麻布の連隊に均は異動となり、入学したのは六本木の三河台小学校(いまはない)。三年のとき、新屋敷に戻り、熊本市の白川小学校に転校してきた。眼鏡をはめ、ダブルのスーツを身に着けて登校。「小さな紳士が来たぞ」と担任の先生が言った。この学校の大先輩に、やはり東京から転校してきた木下順二がいる。後に光岡は木下を師として仰ぐ。四年のとき、藤島泰輔が転校してきて、同級となった。文藝春秋の「同級生交歓」で、朝日新聞の科学記者だった木村繁は光岡のことを「子供のころは、茶目っ気たっぷりの、愉快で柔軟な少年であった」と書いている。頭が大きく、「仮分数」と呼ばれていた。本好きの子であった。
 父の均は、中国大陸で転戦していた。
 夏休みや冬休みなどは母に連れられ、しょっちゅう大岳村に里帰りした。母の父、外祖父は宇土郡長をし、大岳村長をしていた。盲目の大伯母がいて、大きな座敷の蚊帳のなかで、光岡の背中をかいてやりながら、不知火に棲む龍の話をしてくれた。龍が人間の男を好きになり、ひとりの男の子を産んだ。しかし、正体がばれて、海に帰るとき、両の眼をくり出して渡し、子どもが乳を欲しがったら、この眼をなめさせよ、と言って、海に消えた。龍の子ども恋しさに泣く涙が不知火だ、だから、龍の灯、龍灯という。バンコ(縁台)に母と大叔母と座りながら、九月の八朔の前後の夜、暗い水平線の向こうにゆらゆらと出現する不知火を眺めた。
 海で泳ぐのは苦手で、磯辺に座っていたら、ミルク色の夕靄が彼方から漂ってきて、包まれていた。そうした不知火海に面した母の里での日々は、光岡文学の原郷となっていく。
 白川小学校の六年生の途中、母子三人、旧満州の牡丹江に移り、円明小学校に転校した。昭和十九年のことだ。昭和二十年四月、星輝中学に入学した。そこは軍人の子弟が多かった。敗戦を前に母子三人で熊本に引き揚げている。おそらく戦局が急迫していたためだろうが、光岡はそのときのことを語っておらず、小説の題材としていない。敗戦時、父は桂林に陸軍が設けた飛行場の司令官で、中佐であった。
 母方の親戚である宇土町の寺に身を寄せたが、空襲に遭った。光岡は旧制の宇土中学に転校する。父の復員も早かった。飛行機に分乗して帰ってきたともいうが、真偽は定かではない。光岡には、憲兵中佐の叔父もいる。
 沼山津の田畑は、不在地主ということで戻ってこなかった。
 父は頭を下げるのができないひとで、土木作業員となって、九州山脈のなかの飯場に入りこむ。宇土半島の母の実家から中学生の光岡は自転車で闇焼酎や黒砂糖を運んできて、それを母が売りさばき、また得意でもない和洋裁で生活をたてた。パン屋のアルバイトもした。
 宇土高校に進み、教師の武田全のまわりに集まって短歌を詠み、生徒会に立候補し、文芸部と演劇部に属し、好きな女の子が出てくる小説を書くなど、積極的で成績も優秀であった。昭和二十六年四月、熊本大学法文学部法科に進むが、相変わらずアルバイトに明け暮れていた。三年のとき、熊本市内を流れる白川が氾濫、泥土に街が埋まる。当時、熊本市立田口の借家に母とで住んでいたが、濁流の中を母と高台へと命からがら避難している。このときの体験は「湿舌」に取り入れている。この大水害で生活は一段と困窮し、大学生の身分のまま薬品会社のセールスをしていたが、学業は怠らず、宇土高校時代からの友人によると、司法試験をめざしていたという。
 昭和三十年、熊本日日新聞社に入社。校閲部から政経部を経て、文化部に転じた。美術展の取材を部長の松下博から命じられた。不安げな光岡に、松下は「絵にじっと向かい合っておれば、わかる」と言った。海老原喜之助が名付け親となった「世代」の若い画家たちが台頭していた時代で、のちのちまで彼らに同志的な意識を持つようになる。この「じっと対象と向かい合え」という松下の教えは、小説を書くときなどの光岡の基本となる。
 妻となる千哉恵を引き合わせてくれたのは伯母の長谷水美である。熊本女子大家政科を出て、宮崎県境の馬見原中学で家庭科ばかりではなく、国語や音楽も教えていた。最初のデートのとき、「僕は小説を書いている」と言った。両親との家を出て、所帯を持った。
 下通に大江捷也が営む喫茶「山脈」で安永蕗子、堀川喜八郎らと毎日のように顔を合わせていた。大江の音頭で「グループD」を結成、リレー式に個人誌を出した。光岡は第二号に戯曲「神知学序説」を書いた。のちに「芽の会」が熊本市民会館で上演している。妻の千哉恵も友人を誘い、見に行ったが、難解で頭をひねって帰ってきたという。
 人事異動で東京支社にだれを出すか、となった。独身者が条件だったが、光岡が名乗り出た。「まあいいだろう」となり、夜行寝台で長女の手を引き、赤ん坊の二女を背に負いながら、上京した。東大泉の借家の並んだ一軒おいた隣には五高出身の作家、飯尾憲士がいた。「西南と東北」と題した民俗的で、土着性の強いルポを連載した。実に数多くの作家、画家、芸能人たちに会っている。「日本談義」昭和四十三年一月号に「東京の中の熊本人」として活写しているが、彼が意図的に会っているのは演劇関係だ。
 四年後、本社に戻り、立田山の麓に分譲地を求めて、家を建てた。両親は弟夫婦と住んでいた。弟は水産大学を出て、機関士として外国航路に乗っていた。
 「日本談義」主宰の荒木精之に声をかけられ、四十七年二月号の小説特集に「棚鳴り」を発表する。同誌のあとがきに荒木は光岡のことを「新顔」として紹介している。三十九歳。それまで同人雑誌の経験はなく、遅いスタートだった。「棚鳴り」は、ビルのなかの喫茶店(夜になると、バーになる)に居座っている五人の男と一人の女(この五人の男たちすべてと関係があるらしい)が、洋酒瓶などが並んだ棚がひとりでに鳴り出すのをひたすら待っている話だ。成功はしていないが、実験的な作品である。「光岡はこんな作品を書いていたのか」と驚くが、「棚鳴り」という超自然的な現象と、俗世間の人間たちの葛藤を並列的に描く手法は、その後の作品にもほぼ一貫して見られる。この「棚鳴り」は、現代的風俗に彩られているが、明治九年の神風連が神霊を乞うた「宇気比」がヒントになっているのでは、と筆者は推理する。あまりにも飛躍が過ぎると思われるかもしれないが、光岡は神風連の顕彰に半生をかけた荒木精之のもとに出入りしており、後に小説として神風連を書こう、とずいぶん調べている。
 昭和四十八年、光岡が四十一歳のとき、戦争をほとんど語らないまま、父の均が七十歳で亡くなった。「私は新聞社勤めだが、肉親が亡くなると死亡記事を載せてくれる。私も父の死亡記事を書けといわれたが、どう努力してもたった七行にしかならなかった」(「草と草との距離」あとがき)とのちに書いているが、本気で光岡が小説を書き始めるのはそれからである。五十年二月号の「日本談義」に発表した「卵」が全国同人雑誌優秀作として「文學界」に掲載される。海外航路に乗っている弟が持ち帰ったダチョウの卵が題材になっている。昭和五十一年、文化部次長から東京支社編集部長となる。この二度目の東京支社時代、「文學界」に発表した「いづくの蟹」「奥義」「湿舌」が芥川賞候補に挙げられる。「湿舌」は前述したように、昭和二十八年の白川大水害を題材にしているが、これを書くにあたり、大きなテープレコーダーを熊本の同僚のもとに持参し、取材している。自分も体験しているが、むしろ同僚の過酷な思い出をもとにまとめている。大宅壮一の門下に入り、草柳大蔵らと交わる一方、文藝春秋社の編集者らとも精力的に付き合っている。
 本社に文化・放送部長として戻り、「草と草との間」が四度目の芥川賞候補となるが、賞は逸する。作品集「草と草との距離」が文藝春秋社から刊行され、熊日文学賞を受賞する。光岡は講談社の編集者から長編の書き下ろしを依頼される。光岡はこれに賭ける。戦後初代の海上保安庁長官だった大久保武雄代議士から敗戦後、米軍の命令で朝鮮半島沿岸の機雷除去に従事した海軍の残党の話を聞いた。これが「機雷」の素材となった。三年間、他の注文はすべて断り、体重を八キロもすり減らすほど精根傾けて取材と執筆にあたった。
 光岡は、「機雷」で直木賞を受賞した。昭和五十六年一月のことで、四十九歳だった。もう二十三年以上も前だが、光岡が職場の受話器を取り、受賞決定の報告を受けたときの周囲の興奮はいまも忘れられない。
 光岡は論説副委員長となった。作家と新聞社との二足のわらじだ。直木賞受賞後第一作として、「別冊文藝春秋」に「千里眼千鶴子」を連載、文藝春秋社から刊行された。熊日情報文化センター社長に出向となり、経営に当たるが、直木賞受賞から三年後、初代の熊本近代文学館長に転じた。といっても客員論説委員として熊日との関係は続き、「月末拾遺」を長期にわたって執筆する。細川護熙知事のときで、細川県政の文化ブレーンといった色合いもあり、熊本県の文化行政に深くかかわるようになる。単に文化にとどまらず、環境や治水、治山、水資源の問題などにもそれは及んだ。
 海運不況で弟は陸に上がり、長崎の水産高校の教師となる。母も弟の家族に付いて行く。「弟はやさしい。明は冷たい」という言葉を母はよく口にしたらしい。「熊本が恋しい」と言って、熊本市内の病院に移り、昭和六十一年、亡くなるが、光岡が見舞いに行ってもあまり口もきかず、光岡もぶつきら棒であったという。といって愛情がなかったわけではない。表現が下手なのである。母親と光岡の性格はよく似ていたといい、また、光岡への期待は、子どものころから異常なほどに大きかったという。敗戦から二、三年たったころ、ある日、母が「人間」という雑誌を買ってきて、光岡に与えたこともあったという。鎌倉文庫から刊行されていたもので、吉川幸次郎、谷川徹三、川端康成など一流の寄稿者が勢揃いした総合雑誌だった。「草と草との距離」「湿舌」など光岡作品には母親が出てくる。父親よりずっと近しい関係で、どこか一体化したような感じすらする。光岡文学の原郷である不知火の海の光景も「母の海」である。
 光岡には、「迷鳥」(作品者)、「柳川の水よ、よみがえれ」(講談社)、「前に立つ空」(文藝春秋)などの著書もあるが、直木賞作家にしてはそう多くもない。
 「機雷」を高く買ってくれた池波正太郎氏から蕎麦と熱燗で祝福されながら、「まず原稿用紙に向かって一行書いてみろ。苦しいがあとから出てくる」と作家の心構えについて教わったというが、結局は、中央に出ていくことはなく、地方住まいを続け、自分のペースを守りながら、作品を書いてきた。新聞社にいたときは記者として、熊本近代文学館長になってからは各種審議会、委員会の委員として、熊本県内は隅々まで歩き回った。真面目な性格で、一度委員職につくと、資料を丹念に読み、周辺を勉強し、ときには事務局に出かけて行って質問し、データをもらった。ますます委員職がくるという悪循環のなかにいたが、「それが住むということだ」と光岡は思っていた。「観念でなく目に実際に見えるすぐ隣の人と、ときに共鳴し、ときに喧嘩をし、目に見える形で状況を動かしたい、または動かすのが、人間の義務だと思っているのである。作家の仕事はどうするのだ、という声が聞こえる。それも“住む”仕事のひとつとしたい。住めば周辺の地理、四季がよく見える。観念の疾走は起こらない。そしてなにより、人間は無限のデータを持っている」と書いている。
 そうした地方住まいのなかから多作ではないが、質の高い短編をコンスタントに世に出してきた。なかでも平成五年の「文學界」八月号に掲載された「行ったり来たり」(文藝春秋刊「薔薇噴水」に収録)は、光岡の作家生活の後半を代表するものとなった。光岡文学のよきウォッチャーである熊本大学名誉教授の首藤基澄は、「行ったり来たり」を読んだとき、「作家が大きく飛躍するときに立会っているという思いを強くした」という。「行ったり来たり」は、宇土の轟水源に棲む水の精だ。地下の巨大な水盆でゆったりしていることが多いが、ときには水源口で、静寂をかたちにしたような様子で、よく空行く雲を見ている。そして地上では人間たちの対立を戯画的に光岡は描いてみせる。宇宙や自然のなかにあっては、人間どもはちっぽけな存在だ。文章の巧みさ、自在さには驚くものがある。「カッパ紀に」「山のおじ」「狐、走る」など、これら一連の作品によって、「光岡ワールド」ともいえるアニミズムとフォークロアの要素を持つ独特の世界を築き上げていった。
 ちなみに熊本近代文学館長は十年間勤め、平成八年三月、留任要請を振り切るように退任したが、六十四歳当時、光岡が一例として上げていた公職を並べておく。
 熊本県文化振興審議会会長、熊本県立博物館基本計画策定委員会委員、芦北・水俣地域振興財団理事、肥後の水資源愛護基金常務理事、熊本市水道局明日の水源を考える懇談会委員、建設省熊本工事事務所風土懇談会メンバー、熊本県文化協会環境文化部会部会長、熊本大学付属病院遺伝子治療委員会…。なかに熊本酒を愛する会事務局長というのもあった。
 漱石の来熊百年を記念し、熊本県は「草枕文学賞」を設けた。光岡は実行委員と選考委員となった。三度、作品募集がなされたが、光岡はすべての作品に目を通した。八百前後の応募作品を入れた段ボールを積むと、天井に届く。光岡はそれらを読み通すのに三カ月をかけた。
 熊本日日新聞の夕刊に平成十五年一月末から毎週一回、大型エッセイ「恋い明恵」を五十回にわたって連載した。
 鎌倉前期の華厳宗の僧である明恵は、栂野に高山寺を営むが、トトロのように森のなかの木の空のなかに座し、泣き虫でよく泣き、夢日記をつづり、故郷の湯浅湾に浮かぶ島に手紙を出す。そんな明恵に光岡は恋をしていた。
 明恵は、ふたつの小石を宝物のように大事にしており、その小石を愛する親しい感覚を述べたくだりで、光岡は、「おじゃる丸」の宿主であるカズマ君が小石を集めていることにさりげなく触れている。NHK教育テレビで夕方、放映される子ども向けのアニメだ。ガラス窓が夕日に映え、ちょうど夕食どきだ。「ああ、光岡さんも見ているのだな」と微笑ましくなった。
 「恋い明恵」の連載には、そういう至福の光景を見いだす楽しみがあった。
 連載が終わり、四カ月ほど経ったころ、長崎の甥から電話がかかってきた。「おやじがガンにかかった。あと三カ月の命」という涙声であった。(四歳違いの唯一のきょうだいである弟は三カ月後に亡くなった)
 光岡のショックは大きかった。
 そのころ、光岡は奇病に苦しんでいた。全身に赤疹が出て、かゆくてたまらない。専門医に診てもらったら、皮膚筋炎と呼ばれるもので、全身の筋肉から力が抜け、国指定特別疾患、つまり難病の一つとされている。さらにやっかいなことに高齢で発症した患者は悪性の腫瘍を持っている。検査につぐ検査の結果、平成十六年七月二日の夜、肺ガンの告知を受けた。
 このときのことを光岡は個人誌「この世」に、「やはり重いショックがきた」と書いている。二、三日の夜は眠れなかった。「芋虫のように暗い白夜の底に転がっている私をまず襲ったのは、身を切り裂くような寂寥感、孤独感、孤絶感であり、表裏の人恋しさ、懐かしさ、過去への愛情慕情であった」。ついで襲ったのは、そういう人恋しい相手に自分がなにかしたのか、という慚愧の念だったという。芋虫状態から頭をもたげるきっかけとなったのは食事と排便だった。「習慣は聖者の徳に近い」というカミュの言葉を思い出していた。病棟廊下に七夕の笹が立った。笹には病気平癒を祈る短冊であふれた。「人間の命というものは小さくてかわいくて、もろくてはかないものだ、だからすべての命を大事にしなくてはならない。私がガンで会得したのはたったこれだのことである」
 光岡は手術をせず、抗ガン剤と放射線治療を受けた。放射線治療は別な病院で受け、入院先との間を送迎バスで往復した。街に出てきて、書店やデパートの地階を巡り、「仮分数」の頭におさまる帽子を求めてまわることもあった。
 個人誌「この世」のなかで光岡は、「隠し部屋」が自分にも存在し、そこに逃げ込み、自分のことを書かずにきたことを打ち明けている。光岡は、地元在住の作家、福島次郎に、「自分を隠すために、自分は小説を書いている」と話したことがあった。光岡は日本の伝統的な私小説作家とは異なる。死を意識せざるを得なくなった光岡は、「隠し部屋」を開くべきか、と一度は考えたが、やめた。死をあまり買いかぶらないことにした。それが「死」に対する精一杯の抵抗だった。
 闘病中も読書をやめなかった。本を読む、ものを書く、ということは光岡の楽しみだった。
 光岡の知友たちに「この世」が送られてきた。宛て先を書いた文字は光岡の手になるものだった。その小冊子を開いてみて、初めて光岡がガンであることを知った者も多かった。それが届いて半月もたたないうちに光岡の訃報が伝えられた。
 平成十六年十二月二十二日、自宅で家族の見守るなか、永眠した。七十二歳だった。
 「恋い明恵」は遺作として文藝春秋社から刊行された。

直木賞受賞の瞬間(昭和57年1月18日)

直木賞受賞の瞬間(昭和57年1月18日)
提供:熊本日日新聞社



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