熊本県教育委員会 文字を大きく  文字を小さく  色を変える

広田 尚 (ひろた ひさし)



広田 尚(ひろた ひさし)

自由民権運動家
天保十四年(一八四二年)十二月二十五日生まれ 
植木町出身 故人

業績概要

国興し、町興しの理想に燃えた自由民権運動家。
 横井小楠の教えを受け、維新前に私塾を開いて城北地方の青年教育に携わる。
 明治八年、宮崎八郎らと本県最初の自由民権派の学校である植木学校を設立し、自ら教鞭をとり、自由民権思想の普及、青年教育につとめた。
 明治十年、西南戦争が起こると植木学校関係者と共に熊本協同隊を結成し、西郷軍として参戦した。
 西南戦争後、言論の世を目指して相愛社に参加し、自由民権を主張。愛国社第三回全国大会に相愛社代表として参加し、明治十五年、九州改進党の結成に参加するなど自由民権思想に基づく言論活動、政治活動を行った。
 明治前期、熊本における民権運動の普及に大きく貢献した。

・明治八年   宮崎八郎ら同志と共に自由民権派の学校である植木学校を創立
・明治九年   県民会議員となる
・明治十年   城北の戸長征伐を堀善三郎と共に指導
・同年     同志と熊本協同隊を組織し、西南戦争に西郷軍側として参戦
・明治十二年  熊本の相愛者代表として愛国社全国大会に出席
・明治十五年  九州改進党結成に尽力
・昭和五十七年 広田尚の墓所「広田尚先生同令夫人墓碑」が植木町指定文化財となる。
明治二十八年 没

広田尚先生小伝 理想に燃えた町興し、国興し、民権家の生涯

                       熊本県文化協会常務理事 勇 知之

 1 横井小楠に学ぶ 信頼も厚く 福井藩に随行
 広田尚(彦右衛門)は、天保十四年(一八四三年)十二月八日の生まれである。飽田郡津留村士族広田真蔵分家、郷士と記録にある。津留村は旧北部町の津留の茶屋付近といわれる。明治十年「植木町焼失家屋絵図」には、植木町西二丁目上に、″広田尚″と記された屋敷があり、西南戦争の時には同地に住んでいたことが判る。
 広田尚は若い頃に、藩校時習館、県北長洲の月田蒙斎塾に学んだという。同塾では後に植木学校を共に設立することになる宮崎八郎の兄弟子にあたる。
 その後、幕末の開明的思想家、横井小楠に学び、実学党横井派に属した。
 横井小楠の信頼も厚く、文久二年六月、四度目の越前福井藩招聘に、迎えに来た福井藩士由利公正や甥横井大平、門下生内藤泰吉と共に、若党広田彦熊として随行した。途中、小楠は急使に呼ばれ江戸へ向かい、政事総裁松平春獄を助けて幕政改革に貢献することになる。彦熊(尚)は、横井大平の従者として越前に同行した。横井大平は後に米国に留学、熊本洋学校設立にも尽力した。小楠が留学する二人の甥に送った詩は有名である。福井では五箇条の御誓文を起草した前述の由利公正など優秀な若者が多数いた。また、小楠を尊敬する坂本龍馬などがこの時期福井を訪れている。若き彦熊は、藩政、地方の改革、日本の改革をめざすこれらの人々と議論し、大いに見識を広めたであろう。

 2 植木学校に足跡
   ―城北の若者を育てる―
 慶応三年十一月、平戸の桜蹊書院に宮崎八郎と共に入塾、学問の幅を広げた。
 明治維新前には玉名郡永方村と山鹿町に塾を開き、城北の若者・郷士・豪農の子弟―野満長太郎(山鹿)、淵上幾(玉名)、築地貞俊(玉名)ら―を育てた。
 ″熊本の民権家は多く、其の門より出しなり″と記されている。
 明治初年には自ら東京へ遊学、詳細は不明だが、宮崎八郎や野満俊太郎ら後に植木学校を設立する人達と交流し、文明開化の新時代を体験、″天下の志士と交わった″という。

   ―植木学校設立に尽力―
 明治七年十月付の広田尚の帰県届に「―記、私こと為看病、帰県仕候間、此段御届け申上候事。白川県出張所御中―」とあり、明治七年十月に帰県していることがわかる。宮崎八郎も同じく病気と称して帰県。同年末、宮崎八郎は松山守善に「僕らの学校設立に協力してくれ」と語っている。その後、明治八年一月頃、植木学校の設立願いが県庁に提出された。そして、宮崎八郎は松山守善に「平川惟一、有馬源内らと植木に中学を設立し、同志を糾合するはづにて、先日願書を県庁に出しおきたけれど・・・」と語っており、すでに植木町の広田尚らとある程度の話し合いが済んでいたことをうかがわせる。
 当時、熊本県は明治三年に県政を握った実学党が、熊本洋学校・医学校設立、減税の実行といった開明的改革を行ったが、これが時の政府に急進すぎると一掃された。保守派の安岡県令は学校党や一部勤皇党を取り込み、保守県政を行った。一方で旧勤皇党の流れを組む神風連も洋化策に反対。また、第二世代ともいうべき、維新後上京遊学した経験のある宮崎八郎等若者は、全国的な民会開設運動に刺激されて反県令色を強めていた。こうした左右の反対派を懐柔するため、安岡県令は右派神風連の一部を県官の神官として採用。左派の民権派の若者には文明的中学校の設立を許可、土地・建物を供与し、月額四十円を補助することとした。

  ―要地植木と広田尚の存在―
 明治八年四月二十六日、変則熊本県第五番中学校、通称植木学校が開校した。場所は植木町広町にあった旧正院手永会所(山本郡役所)で、旧会所の建物を一部営繕して使用した。何故、学校が植木に設立されたかといえば、植木が城北交通の要地であり、熊本城下、玉名、山鹿、菊池方面からも利便な交通路の中心にあり、等距離にあることだった。さらに植木には城北若者の指導者であり、設立に尽力した幹部の兄貴分にあたる広田尚が居住していたことも大きかったと思われる。
 明治六年、全国に小学校が設立され、福沢諭吉の「学問のすすめ」「世界国尽」などのベストセラーも出て、変化の時代、当時は学習熱も高まっていた。県は変則ながら、後に構想していた中学校を前倒しして認め、第五大区という行政区にあったため、第五番中学としたのである。この新生私立中学校には当初五十〜六十名、最盛期には八十名もの生徒が集まった。生徒の年齢は十代後半から二十代の無名の若者、″饑渇の貧書生″(古荘嘉門談)がほとんどだったが、新時代に向けて西欧の文明を学ぼうと輝いていた。
 主な生徒のうち広田尚と交流があり、その教えを受けたり、植木町在住で影響のある者(○をつけると)がほとんどになる。
 有馬源内(寺原 二十四才)、○堀善三郎(植木 三十才)、○中根正胤(島田 二十六才)、○堀寿三(植木)、松川杢造、○藤木小平大(植木小野)、倉本半太郎、田中覧道(山崎町、二十才)、古賀義明(坪井町)、○月田道春(長洲、二十二才)、○一木斎太郎(長洲、十七才)、○袖井英次郎(植木草葉)、渡辺忠(熊本)、松川藤四郎、高田露(坪井町、二十二才)、○宗像覚馬(玉名永方、二十三才)、○野満安親(山鹿古閑)、○野満長太郎(山鹿古閑 二十五才)、○蓮沢速応(山鹿古閑)、○麻生陣行(植木小野)、○麻生敬次(植木小野)、宗数馬(植木投刀塚)、○桜井思角(植木)、○渡辺嘉熊(植木舞尾)、○柚井英次郎(植木仁連塔)
いかに広田尚の影響が大きかったことを物語っているといってよい。

 ―文明的中学校―
 植木学校が歴史的にみてすぐれたところは、今日の世界の民主主義国家成立の基本的考えとなっている仏の思想家ルソーの「民約論」を教典としたことである。中江兆民が民約論を発表し、全国的なベストセラーになるのは西南戦争後であり、この時期はまだ漢訳された草稿のものであったという。宮崎八郎が東京の評論新聞に発表した″泣いて読むルソーの民訳論″という詩がある。―自由と民権を説き、人々の平等な投票によって代表が選ばれ、議会で法律が作られ、行政は人々の平和と安全を守らねばならぬと説く新しい世界が来ること―を思い、植木学校で若者達は熱い涙を流しながらこの教典を読んだであろう。この他、植木学校ではミルの「自由の理」、「万国公法」、「万国史」、「與地史略」、「方法精理」といった欧米の文明・学問を学んだ。″この様な文明的学校は当時、慶應義塾と植木学校より外にはなかった″と記されている。地方の一在町にこのような学校を無名の若者が作ったことは我々の誇りである。学校は合宿形式のセミナーハウス、研修所のようなもので、不規則、夜どうし、宿りがけで講義し、共に議論したという。

 ―教師として独特の授業―
 学校運営は平川惟一(百貫 二十六才)が校長兼舎監。教師は広田尚(植木町 三十三才)、宮崎八郎(荒尾 二十五才)、麻生直温(植木小野 三十一才)、松山守善(寺原 二十七才)など二十代後半から三十代の青年教師、兄貴分が教えているようなものだった。
 特に広田尚の講義は俗語を用いて極めて平易であったという。むずかしい書も、広田尚にかかれば、たとえ話も世俗にもわかるように格式張らず、軽妙であり、その話に夢中にさせたという。広田尚の高い理想、下層社会へ目を向け、そこに通じる心があったからであろう。それこそが民権家として小楠の思想を新しい時代に生かそうという広田尚の面目でもあった。自ら働き、理想に燃える地域の若者もそのような現実をふまえた広田尚の講義に引かれ、共感していったのだった。

 ―一種奇怪の学校―
 植木学校は設立前より″私学校と気脈を通じ″ていたといわれ、一種奇怪の学校といわれた。勉学の他、遠足と称して体力を鍛えさせた。これは旧制中学の行軍遠足と同じであろう。また、撃剣を練習したり、負傷兵の訓練を行ったといわれる。この意図は何かというと、植木学校の幹部が有司専制の政府、役人が専横で住民のために奉仕せず、まだまだ民主的な国民の自由と権利が守られていない故に、基本的に反政府の立場であった。
 さらに植木学校は欧米の民主主義や文明を学問として学ぶだけでなく、それを実践に移すことに力を入れた。それが九州各地への遊説員の派遣であり、県北各地での演舌会の実施であり、また後の戸長征伐であった。
 明治八年七月には民権自由の啓蒙思想を広めるため、柳川、久留米、福岡、佐賀に遊説員を派遣している。これには広田尚と共に熊本県民会議員で植木町の豪商松屋の主人、堀善三郎が尽力した。広田尚の妻が堀善三郎の妹であったといわれる。堀善三郎も年長ながら植木学校で民約論を聞き、大いに感発。以後積極的に植木学校を援助した。遊説員は堀善三郎より十円の旅費をもらい旅に出た。これら多くの植木学校支援により豪商堀善三郎は、″為に産を傾けた″といわれている。
 また、明治八年六月には城北の中心地山鹿の寺院で、民会なるもの=演舌会を開き、約五百名が参加した。演舌は″天賦の人権の啓蒙、民撰議院、県民会の開設要求″といった民権自由を鼓吹した内容であったという。このような演説会は地元植木でも幾度となく開かれたことであろう。
 これらの過激な植木学校関係者らの実践に、ついに県の警察が中止を命じるようになり、県当局も懐柔策が裏目に出たとして、補助金を打ち切ることとなった。
 明治八年十月、植木学校は閉鎖を命じられたのである。わずか半年足らずの期間であった。
 しかし、西南戦争以前の自由民権学校設立とそこでの運動は、日本の近代史に先駆的足跡を残したのだった。

 3 戸長征伐を指導
  ―百姓の″ばからしゅうなか″世を作る―
 明治九年、三十四才の広田尚は堀善三郎と共に県民会議員に選出された。
 広田尚は以前から植木町周辺の農村各地を廻り、農民の話を良く聞いた。また植木学校の生徒らと共に、植木町小野にある小野小町が産湯に使ったという湧水池=小野泉水に水浴びにも度々行った。その途中では必ず小道村の木村一蔵宅に寄り、「帰りに寄るけん、だご汁ば作っとってくれ」と声をかけて行ったという。また、村の青年らと共に泳ぎやその行き帰り、良く話をしたという。
 その中で感激し、農民が語り伝えていた広田尚の言葉がある。
 「今、一番、ばからしかっは ぬしどん百姓ぞ」「政府が悪かけん」「俺達が天下が取ったならば・・・」「一番にぬしどんが 引き合うごっするけん」「もうちいっと しんぼうしてくれ」
 とぎれとぎれだが、農民は広田尚の言葉を忘れはしなかった。

  ―広田先生の名、高し―
 明治九年十月、右派の神風連が反乱、安岡県令は殺されるに至った。旧士族、鹿児島私学校などの反政府熱の高まりもあり、一気に民衆に不満が高まった。
 「戸長は村民の代表者なり、よろしく民選によるべきなり」
 宮崎八郎や植木学校関係者はこの説によっていた。維新後、年貢は金納地租となり、その上に民費が荷せられていた。政府は民費により、戸長役場を設立、その費用をこれにあてた。また学校設立と運営にも民費を使った。各地に設けられた村の戸長役場、しかし、その戸長や副戸長らは依然として旧時代の庄屋、村役人、地主が任命されていた。役場は旧時代の感覚で民費の使用については明確ではなかった。
 自らの血税の使い道を情報公開し、その使い道を正すのは納税者である人民の権利である。それが正しい民権の行使だと広田尚ら植木学校関係者は考えた。そして村民と話し合い、戸長役場に大挙押しかけ、その使途の説明を求めた。当時は戸長らは、民費の使途は自分達にまかされたと思っており、食糧費(飲み食い)等にも使っていて、不正を追及されるに至った。こうして植木町をはじめ、城北各地に戸長征伐、百姓一揆が伝播した。これらの指導的立場に立ったのが、植木学校関係者であり、植木地区では二人の県民会議員、広田尚と堀善三郎であった。
 ″広田先生の名一時に高し″と記されており、県北の指導者の中心的人物は広田尚であり、又、その師弟だったといってよい。

  ―百日の入檻申し付らる―
 戸長征伐の植木町の例をあげると
 明治九年一月九日、轟村、轟学校村民集会。
 一月十三日、(西合志)御代志村。
 一月七日、霜野村。
 一月十八日、仁王堂村。
 一月十九日、(玉名郡)白木村。
 一月十九日、清水村前田茂一宅と小清水紀三太宅に多数の農民が竹槍を持って集合。戸長役場(牧野五郎)へ話しかけた。
 一月二十七日、吉松区平井村の河原に多くの農民が竹槍を持ち集合。同村の専徳寺で協議中、県警部が出張して来て退散を命じている。この日、県は再度の集会禁止令を出した。
 翌二十八日、広田尚と堀善三郎は県庁に呼び出され二人共入檻を申し付けられた。
 一月二十九日には山鹿光専寺に農民一万人が集まり、大集会を行ったが県警により鎮圧された。
 この後、指導的立場の広田尚と堀善三郎は処罰を受けている。
  申渡
  熊本県肥後国山本郡植木町
    士族 広田 尚
 其方儀、各村人民ノ依頼ヲ受ケ、昼夜各村ヲ巡リ、諸民費ヲ質問セント儀シ、村民ヲ卒キ、衆威ヲ以テ、戸長詰所ヲヨビ居宅ナドヘ押寄セ、戸長ヲ集会場ヘ呼ビ寄セ、精算ヲ迫ル、ナドノ科、改定律例第二八七条ニ逸フ者ニ擬シ、懲役百日、士族ナルヲモッテ、 刑ニ換ヘ、禁獄百日、申シ付クル
明治十一年三月二十日 熊本裁判所
 また、戸長征伐の参加者には後に罰金刑が荷せられている。
 五大区七小区、一一五九戸中五〇三戸=四五%。九小区、一一六六戸中二七二戸=二三%。十小区、九四五戸中六八九戸=五二%にのぼっている。亀甲村九三戸、平井村七九戸、轟村一二二戸、清水村二二〇戸、正清村八二戸など・・・
 西南戦争前夜、県北や植木町は反政府、反県の百姓一揆(戸長征伐)が吹き荒れた。そして、指導者広田尚・堀善三郎は県民会議員でありながら入檻させられたのであった。

 4 熊本協同隊を結成、薩軍へ
  ―本営詰、主簿となる―
 明治十年二月十九日、熊本城天守閣が炎上し、いよいよ薩軍が来ることになると、旧植木学校関係者は武器を携えて、誰れ言うともなく植木学校に集まったという。二月二十日、同志は保田窪神社に集合するため、広田尚ら二十名が豊前街道の鹿子木部落を南下していた。そこへ官側、大河原貞喜率いる鎮撫隊と左右の道をはさんですれ違った。互いに武装し、すわ一戦かと思われたが、緊張のうちに無視し通過することで終わった。一行を見守る住民も手に汗を握る一場面だったという。こうして二月二十日、保田窪神社で熊本協同隊を結成。翌二十一日、出京町小学校において、投票で幹部を選出した。隊長平川惟一、参謀宮崎八郎、半隊長有馬源内、麻生敬次、輜重長安藤維が選出され、広田尚は本営詰主簿となり、隊務、補給、後方の一切を統括した。
 協同隊は二月二十二日、二十三日の熊本城総攻撃に参戦した後、二月二十四日より薩軍桐野隊と共に山鹿に進駐した。山鹿では三月四日の山鹿鍋田の戦いで隊長平川惟一が戦死している。後任の隊長には崎村常雄をたてた。山鹿では各旅館が薩軍に割り当てられ、薩軍は上士、郷士、平民と浴場を分けた時、広田は不快を述べたという。また植木町で薩兵の宿舎に割り当てられた家の者が、薩兵より早く入浴しようとして薩兵の怒りをあびた。この時、広田はこれをいさめ「人民にも入浴の権利がある」ととりなしたという。城北の民衆は戸長征伐もあり、反政府、薩軍びいきであったが、一方、薩軍が民衆の心をつかめなかった点もこの様なところにあるのではなかろうか。広田尚は常に民衆の目線に立っていた。宮崎八郎が公言したように、″一応西郷に味方し、政府を倒した後、西郷と主義の戦をする″意志を広田尚も持っていたであろう。昔を恋しがり時代を後に戻したい不平士族と違い、熊本協同隊はあくまでも民主政治を求めて時代を先に進めるための反政府の戦いを行ったのであった。
 
  ―占領地の自治に尽くす―
 熊本協同隊で特筆すべきことは、占領地での自治制の試みである。
 熊本協同隊は唯一、薩軍に参加した部隊で平民の兵士を可とした部隊であった。選挙で幹部を選び、兵士を人民保護兵と呼んだ。占領地山鹿ではパリ・コンミューンを手本に自治制を試みた。民政官=行政の長には野満長太郎を任命、住民代表の人民惣代には大森惣作を選んだ。その下に人民副惣代を各地から選んだようである。
 植木地区でもそのような自治制が敷かれたことが判っており、人民惣代、各地の副惣代の辞令が出されている。そして何処にあったか判らないが、集議所という議会が植木町に存在したことが記録にある。植木地区の自治構想を実行したのは広田尚と堀善三郎の二人であった。
 熊本協同隊は四百名の隊員が集まったといわれ、平民が加わった部隊ながらその守備地は″最も危険な難地″を自ら希望して戦った。そして、この部隊の戦死者率は他の士族部隊より以上、諸隊中一番だったといわれる。
 協同隊は菊池、御船、矢部、人吉、宮崎と薩軍と共に転戦。八月十五日、西郷の命で降伏した。降伏にあたって協同隊は、その挙兵の主旨を法廷で堂々と主張する声明を出し、降伏にあたっては万国法にもとづく陣上虜であるとした。
 広田尚も前述の戸長征伐の罪で禁獄百日の他、反乱軍に参加したとして懲役一年の刑に処せられた。
 翌年、刑を終えた広田尚が警察に採用されたという話も残っている。人々は、″とうとう広田先生も警察官たい″と嘆いたが、一年間だけ勤めて広田尚は辞職したという。「みんな〈参戦者は〉不幸な目にあっているのに、自分だけが高給をもらっては申し訳ない」というのがその理由であった。同志への思いを忘れない広田尚に″さすが広田先生ばい″と人々はうなずいたという。

 5 民党派政治家として活躍
  ―衆議員選に落選―
 旧植木学校の同志も西南戦争後、政治結社相愛社を結成。武器をすて、言論により政治的要求を実現しようとした。
 明治十二年十一月、愛国社第三回全国大会が大阪で開かれた。広田尚は相愛社を代表して出席。苦難にもめげず、″依然として、自由民権説を鼓吹す″と記されてる。
 相愛社の発行する熊本新聞は、明治十一年の社説で「男女同権」論を述べている。また明治十三年の同新聞社説には「女子の独立」「女子の職業進出」を論じている。戸長征伐の情報公開とガラス張りの財政要求。そして、男女同権、女性の職業進出論など、今日の男女協同参画社会に通じるものである。広田尚らの先駆的主張は、百年を経ていまなお日本の課題である。
 明治十五年二月九日、民党派の公議政党が結成され、広田尚は創立委員となって、同年三月十二日、九州改進党結成に尽くした。明治二十三年には衆議院第三区(山鹿・山本・菊池・合志・阿蘇)から立候補したが、一四六五票の次点で落選し涙をのんでいる。以後、熊本県内は紫溟会(国権党)と民党派(政友会)の政争が続くことになる。

  ―志をとげられず―
 広田尚は西南戦争後に豪商堀家が没落した後、その家、松屋跡(西南戦争で再建か)に住んだ。植木町東二丁目下二〇一番地がそれである。晩年の広田尚について四女の岡田ヤツは、″植木に引き込んでから、エビス神社横の家に多くの人が訪ねて来た。夏などいつも五十人分ぐらいのスイカを井戸に冷やしては割った″という。この家は広田尚没後、筆者の本家宅となり、祖父・祖母が住んだ家でもあり、本文を書くのも何かの縁である。我が家は民党派と対立する国権党の植木地区の拠点旅館となったから皮肉なものである。晩年の堀善三郎は、この家の裏に観音堂を作った。善三郎の息子大助と宮崎滔天は共にそれを大宇宙教に発展させ、今も新座市で堀善三郎の子孫が教祖で存在しているという。
 広田尚は明治二十八年五月六日、不遇のうちに没した。享年五十三才であった。
 ″私塾はまた謀叛を起こすと、差し止められたが、表向きの用はせず、学問はずっと続けていました。お金には冷淡で、開放的な人で、大平楽の一生でした″と前述の四女岡田ヤツが没後に述べている。
 墓碑は植木町桜井の山ノ坊墓地にある。「広田尚先生・同令夫人墓碑」とある。かなり大きな墓である。同墓碑には親交のあった徳富蘇峰をはじめ元県知事宗像政ら県内外の民党派政治家から地元有志までの多くの発起人の名と功績が刻まれている。
 昭和五十七年、同墓碑がひび割れ、倒れそうになっていたのを筆者が元町長の木村学氏と相談し、募金を募り、町文化財に指定してもらったいきさつがある。今も同墓碑は小生が管理者であり、昨年植木学校百年を迎えた今又顕彰されることは感慨深い。
 広田先生は協同隊招魂祭の折「志はとげられんで、死んだ者に申し訳なか」と泣かれたという。理想に燃え、国興し、町興しに燃やされた精神を今一度訴え、国興し、町興しに生かさねばならないと思う次第である。
 昔、元町長に木村尚、元校長に江口尚という人がいた。共に親が広田尚先生を敬愛し、子にその名を付けたという。 このことからも、いかに広田尚先生が人々に愛されていたかが判る。
 
 広田家
 広田尚の長男那輔は大江義塾、早大卒、県庁、後米国住。長女薩は松山守善の二番目の妻。次女伊勢は楢原家へ嫁ぐ。次男与次郎は早世。三男佐次郎は松山守善養育。熊中、東大、日本興業銀行重役。四女ヤツは鏡町長岡田勇に嫁ぐ。熊本市京町二ー六ー八六の岡田佳子氏は広田尚の曾孫にあたるという。
          (文中敬称略)
参考文献
「植木町史」(植木町)
「宮崎兄弟伝」上村希美雄(葦書房)
「明治の熊本」(日本談義社)
「松山守善自叙伝」松山守善
「西南紀伝」国龍会
「熊本県史」近代編(熊本県)
「近代熊本」N0.18″西南戦争期における農民闘争″水野公寿

熊本協同隊幹部

熊本協同隊幹部
明治10年、西南戦争が勃発すると、広田尚氏らは熊本協同隊を組織して西郷軍に参加
後列左が広田尚氏



新規ウィンドウマークこのマークの付いたリンクは新しいウィンドウが開きます。
PDF形式のデータをご覧になるためには、Adobe Readerが必要です。
お持ちでない方は、右のアイコンをクリックしてダウンロードしてください。(無料)

このホームページで使用されている画像およびテキストを、無断で転載することを禁じます。

Copyright (c) Kumamoto Prefectural Board of Education All right reserved.