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内藤 濯 (ないとう あろう)


内藤 濯

フランス文学者・ 「星の王子さま」 翻訳
明治十六年 (一八八三年) 七月七日生まれ
熊本市出身 故人

業績概要

 大正十一年から十四年にかけてフランス留学をし、留学時代には、パリではじめてとなる演能も成功させるなど、精力的に日仏文化交流を図り、昭和六年には、フランス政府よりレジオン・ド・ヌール勲章も授与。
 フランス文学研究の草分け的存在としてフランス近代詩を多く紹介したほか、文学座等の劇団にも関係し、ラシーヌ、モリエール、ラ・ロシュフコー等を翻訳。特に戦後のサン=テグジュペリ「Le Petit Prince」を翻訳した「星の王子さま」は名訳とうたわれ、広く読者に愛された。今日まで六百万部を超える売り上げを誇るベストセラーである。
 平成十七年十一月には、 「星の王子さま」を日本に伝えた故内藤濯氏の業績と、原作者サン=テグジュペリ没後六十周年を記念した文学碑が熊本県立図書館敷地内に建立された。

明治三十九年 東京帝国大学文科大学フランス文学科へ進学。フランス近代詩の翻訳を発 表しはじめる。
明治四十四年 陸軍中央幼年学校にフランス語教官、大正九年には第一高等学校のフラン ス語担当
大正十一年  文部省在外研究員としてフランス留学。(精力的に日仏の文化交流に貢 献)
昭和六年   フランスへの多大なる文化貢献に報い、レジオン・ド・ヌール五等勲章シ ュバリエを受賞
昭和二十一年 詩人、演劇人、音楽家、放送関係者らで「詩の朗読研究会」を発足
昭和二十八年 内藤濯訳「星の王子さま」出版。現在まで、毎年十万部近くを売り上げる ベストセラーとなる。
昭和三十九年 毎月「星の王子さまの会」が開催されるようになる。
昭和四十四年 勲三等銀杯授与。 「児童文化功労者」表彰。

昭和五十二年 没

「星の王子さま」 の翻訳者 内藤濯 (ないとう・あろう)

                           熊本近代文学館長 河原畑 廣


 内藤濯は明治十六年(一八八三年)七月七日、内藤泰吉の四男として熊本市新町に生まれました。父・泰吉は医者。内藤家はもともと玉名郡南関町の医家の家系です。泰吉は若年のころ竹崎律次郎の勧めで横井小楠の書生になります。その経緯は長男・游による泰吉からの聞き書き「北窓閑話」(民友社)に詳しいのですが、内藤濯の「思索の日曜日」(木耳社)はこの間の事情をやや諧謔まじりに次のように書いています。
 「私の父は、縁あって明治維新の志士横井小楠に師事した男だった。だからといって、何も四書五経を通じて経世の策を説き聞かされたわけではなかった。熊本郊外の沼山津にあった小楠屋敷の玄関部屋に寝起きして、くる日もくる日も、雑巾がけや井戸の水くみばかりさせられる内弟子の身の上だったらしい」
 そんな中、万延元年(一八六〇年)の春、小楠は三たび招かれて越前に赴きます。泰吉は留守居役でしたが、そこに小楠から手紙が届きます。内藤濯の「未知の人への返書」 (中央公論社)によると、手紙には「時世はもはや漢方医術のような陋習に拘泥することを許さぬ。敢然志を立てて長崎に赴き、蘭方医術を学んで、斯界に新風を導入せよ」とありました。
 というわけで泰吉はオランダ医学を学びに長崎に赴きますが、旅費の工面が大変だったようです。しかし、その苦労は明治三年(一八七〇年)、横井小楠の流れを汲む実学党が藩政の主導権を握るに至り、開花します。近代化のための教育改革を重視する実学党政権は、西洋の文物・技術を移入するためアメリカ人のジェーンズを招いて「熊本洋学校」を、またオランダ人医師のマンスフェルトを招いて「古城医学校」を開設します。その古城医学校設立に奔走したのが泰吉でした。
 さて新町に生まれた濯少年は明治二十一年(一八八八年)、慶徳尋常小学校に入学、高等小学校を経て、同二十九年に卒業、その後の一年間は半年を百貫の漢学塾、半年を藤崎神社近くの英語塾に通います。そして明治三十年の春、中学に進学することになります。
 濯少年にとっては済々黌を目ざすのが当時としては「通り一遍の順序」と思っていたのですが、父の泰吉から「待った」がかります。
 「父は頭を横に振って、あの学校はよろしくないというんです。なぜだと訊くと、あの学校はわしと政見を異にする政党があと押ししてるからだ、ときっぱり言ってのけたきりで、まったく黙りこくったままでした」 (「思索の日曜日」)
 済々黌は克堂・佐々友房が創立した学校です。 「克堂佐々先生遺稿」によると、幕末の肥後藩には学校党、勤王党、実学党の三派があり、 「学校党は佐幕攘夷、勤王党は尊皇攘夷、実学党は尊皇開国」と分類しています。佐々は勤王党であり、内藤泰吉は実学党です。 「政見を異にする」根底にはそういうものがあったのでしょう。
 濯少年は父親の指示に従い、筑後・柳川の伝習館中学に進学します。柳川の立花藩には横井小楠と親交のある人たちがいました。その縁からだと思われます。濯少年は伝習館中学では北原隆吉(白秋)と同級になります。

   ○上田敏の「海潮音」に感動して

 明治三十二年(一八九九年)年三月、長兄の游が東京帝大工科大学を卒業して東京瓦斯に就職したのを機に弟の学問修業を引き受けることになり、濯は東京の開成中学二年に編入学試験を受けて転校します。そしてしだいに文学青年ぶりを発揮していきます。父親である内藤濯の生涯を克明に追った長男の内藤初穂による「星の王子の影とかたちと」(筑摩書房)によると、文学青年の登竜門の一つとされた投稿雑誌「新声」への投稿はじめ、歌人・金子薫園の家にも出入りしています。同門の歌人は土岐善麿、吉植庄亮たちです。そして明治三十六年九月、第一高等学校一部(文科)丙類に入学します。
 文科丙類はフランス語を第一外国語とするコースです。もともと英語が好きだった濯は文科甲類に進むつもりでしたが、長兄の游が「いまさら英文学でもあるまい。あまり人が手をださぬ外国語に挑戦してこそ男の本懐ではないか」(「星の王子の影とかたちと」)とそそのかした結果、フランス語を学ぶことになったようです。しかし、翌年一月に病気で入院、一年間休学します。
 復学した明治三十八年十月、上田敏の訳詩集「海潮音」が出版されると濯は版元の本郷書院まで買いに行き、すっかり没頭します。ポール・ヴェルレーヌの有名な「秋の日の/井オロンの/ためいきの/…」で始まる「秋の歌」 (「海潮音」では「落葉」)が入っている訳詩集です。ただ、後年、濯は「未知の人への返書」では、上田敏の訳詞としては「秋の歌」よりもポール・フォールの「両替橋」の方を高く評価します。
 「だれもが『海潮音』の〈秋の歌〉を最高だとするが、私はその後編ともいえる『牧羊神』の中の〈両替橋〉をそれ以上に高く評価したい。というのは、詩の起首をわざと日本語にせずに〈ポン・トゥ・シャンジュ、花市の晩、風のまにまにふはふはと、夏水仙の匂ひ、土の匂ひ…〉といった工合に、思うさま音楽的効果をねらいぬいた訳者の耳のよさが、私を啓発するうえにも啓発して、それがきのうきょうの仕事の抜き差しならぬ拠りどころともなり、推進力ともなっているからである」
 このころ濯はキリスト教プロテスタントの一宗派であるユニテリアン協会に接近しています。長男の初穂は「私の父がいつ、誰の紹介でユニテリアンになったのか、当人は記録の片鱗も残していないが、 『六合雑誌』の消息欄〈惟一館記事〉をたどると、一時帰国のマコーリーを歓送する明治三十八年十一月十八日のレセプションに参列した会員四〇名の一人として、父の名が初めて登場する」ことを突き止めています。
 マコーリーは米国のユニテリアン協会から派遣された宣教師、 「六合雑誌」はユニテリアンの機関誌、惟一館はユニテリアン協会の集会所です。そしてこの惟一館で濯は会員相互の親睦を図る「惟一倶楽部」の音楽部会員として活躍、得意の喉(テノール独唱、合唱)を聞かせたり、バイオリンを弾いたことが分かっています。また濯には採譜の能力もありましたが、これらの音楽の素養はどこで身につけたのでしょうか。
 長男の初穂は「開成中時代の英語・地理・唱歌の担当だった佐々木祐継先生の影響ではないか」と推測します。讃美歌の訳詞、創作歌詞とも取り組み、ユニテリアン派讃美歌集「讃歌」の編者にも名を連ねていますが、シューベルトの子守唄「ねむれねむれ/母の胸に/ねむれねむれ/母の手に/こころよき……」の訳詞は内藤濯です。
 明治四十年(一九〇七年)九月、濯は東京帝国大学文科大学仏蘭西文学科に入ります。一高で同級だった福岡易之助が一緒でした。福岡は後にフランス文学を専門とする出版社「白水社」を立ち上げた人です。
 帝大では文学同人誌「帝国文学」に入会したほか音楽好きを反映、濯は雑誌「音楽新報」にも加わり、フランス音楽界の紹介にまで間口を広げているそうです。帝大での授業では当然のことながらフランス人の語学教師に厳しく鍛えられましたが、そんな中では講師の上田敏の文学概論と大塚保治教授の美学講義が救いだったようです。
 帝大を卒業したのは明治四十三年七月、そして同年九月に陸軍中央幼年学校講師、翌年一月に教授となります。この間もユニテリアン協会との関係は続き、総合雑誌のはしりともいえる「六合雑誌」の編集委員を引き受け、ベルギーの詩人・劇作家メーテルリンクの戯曲「室内」「運命」「マレエヌ姫」などの翻訳を試みています。「星の王子の影とかたちと」で初穂は「(そこには)父がめざした翻訳作法『声にだして読むに耐えるリズム重視の訳文』のプロトタイプを思わせるものがある」と指摘しています。
 ユニテリアンと濯の関係は後年、薄れますが、進化論を受け入れ、科学と対立せず、宗派性がないという自由主義・合理主義を掲げるユニテリアン協会には当時、多彩な人々が集っていたようです。財団法人=日本労働会館・友愛労働歴史館のホームページには「ユニテリアンの多くが文学やジャーナリズム、政界や労働界へ進出していった」とあり、吉田弦二郎、山路愛山、黒岩涙香、加藤一夫、内藤濯、坪田譲治、安部磯雄、鈴木文治、大山郁夫といった人たちの名前を列挙しています。
 陸軍中央幼年学校勤務は大正九年(一九二〇年)までの約十年に及びますが、いろんなことがありました。陸軍士官学校卒を名乗る男が突然、自宅を訪れ、フランス語が好きなのでその方面で生活できるような仕事を斡旋してほしいと頼まれます。なんとか世話をしますが、その男は後に劇作家・作家となる岸田国士でした。幼年学校では秩父宮雍仁親王への出講も担当しました。また白水社の模範仏和大辞典の編集にも携わっています。
 そして私生活では次兄・楽の遺言ともいえる「そろそろ身を固めるように」との言葉に従って大森教会の牧師、澤村(旧姓・川田)重雄の長女・優子と見合い、結婚します。
 「星の王子の影とかたちと」によると、澤村重雄は熊本出身。熊本英学校設立に当たって海老名弾正の片腕として活躍した人。海老名弾正はあの熊本洋学校の卒業生であり、熊本バンド結盟に参加、同志社に行った人物です。後に同志社総長になりますが、「思索の日曜日」によると、濯自身「一高の寮生活時代に壱岐殿坂の本郷教会に寮友と一緒に折りおり出かけて行って、海老名牧師の説教に耳を傾け…」とあります。当時、海老名牧師の火を吐くような演説は青年の間で人気が高かったようです。関係者はいずれも横井小楠の実学党につながる人々です。二人は大正九年三月二十六日、本郷教会で海老名弾正・正牧師の司式により挙式。新郎の濯は三十六歳、新婦の優子は二十二歳でした。
 同年四月、濯は母校・第一高等学校教授になります。翌年の大正十年(一九二一年)、長男の初穂が生まれます。翌十一年には文部省在外研究員を命じられ、十月、神戸港からフランス留学に旅立ちます。妊娠している妻と一歳の長男を残してのパリ行きでした。

   ○パリ留学で得たこと

 濯には「星の王子パリ日記」(内藤初穂・編 グラフ社)という本があります。濯の没後、遺品の中から見つかった留学時の日記を編集したものです。これを読むと濯が留学中、いかに寸暇を惜しみ、貪欲にフランス文化を吸収しようと努めたかが分かります。
 火曜から土曜までの午前中はフランス人の先生を相手に本を読み、会話の勉強。午後は週に二度は日本に行くフランス人の先生の相手を務め、 「それがないときは本を読んだり、書物漁りに街に出たりする。夜は週に二度か三度は芝居を観に行く。新作はせりふの聞き取りが難しいときもあり、学校へ出て二時間ぐらいの授業をしたのと同じ程度に疲れる」日々でした。演劇はラシーヌ、コルネイユ、モリエールの古典からボーマルシェ、ユーゴー、シャルル・ヴィルドラック、ルナールなど新旧とりまぜ、来仏中だったモスクワ芸術座のチェーホフの「桜の園」にも足を運んでいます。さらに土曜・休日の昼間に劇場で開かれる「マチネ・ポエチック(詩の朗読会)」に出会い、感激します。
濯は「まず声の言葉があっての文字の言葉であること」を著書のあちこちで強調しています。国立劇場のコメディー・フランセーズをはじめ、滞仏中、さまざまな劇場で聴いた俳優たちのセリフはそれを再確認させるものでした。
 音楽会にも足繁く通い、ラベル、ドビュッシー、フォーレなどのほか、ロシア・バレエ団によるストラビンスキーの「春の祭典」もしっかり観ています。濯によると、留学の目的は「日本で学んだものに磨きをかけるため」ですが、そのために「観るべき物を見る、聴くべき物を聴く、旅すべき所を旅する」と文部省からのお金では足りるはずはなく、「留学して残るのは借金だ」とボヤいています。パリでは仏文学者の辰野隆、山田珠樹、演劇人の土方与士、詩人の太田正雄(木下杢太郎)、画家の藤田嗣治、石井柏亭、音楽家の小松耕輔を知り、岸田国士とは再会、交友を深めています。
 留学中の大正十二年(一九二三年)九月一日、東京は関東大震災が起きます。留守宅の家族の安否が不明でやきもきしますが、十八日になって無事だったことが分かり、ホッとします。異国では残してきた家族のことがただでさえ気になるものです。長男の初穂が大きくなって文学に興味を持つようであれば自分と同じフランス文学をやらせたいと考えたりします。理由は「仏蘭西文学をやらすのは本当の意味で日本文学を研究さすためである」とし、「(自分も)あらためて日本の文学(特に古文学)を読みかえそうという気で一杯になっている。…古事記、万葉、古今…といった具合にたどってみると、日本の文学は世界に誇るべき文学である」と言っています。
 フランス留学は一年半でした。文芸評論家の山下肇・編による「内藤濯先生略年譜」によると、「大正十三年三月帰朝、一高教授の職を続け、機あるごとに教壇よりラシーヌを語る」とあります。帰国後は教師生活の傍ら、戯曲を中心にフランス文学の翻訳・紹介と精力的に取り組みます。代表的なものはラシーヌ「ブリタニキュス」、ヴィルドラック「ミシェル・オークレール」、モリエール「人間ぎらい」「女学者」「気で病む男」、フランシス・カルコ「追いつめられる男」、ラ・ロシュフコー「箴言集」、モーロワ「私の生活技術」、ブールジェ「弟子」などです。
 昭和三年(一九二八年)三月、東京商科大教授に転任しますが、一高の講師を昭和十八年まで(在職二十二年)続けます。また東京商科大学は翌十九年に定年退職を迎えます。
 敗戦後の昭和二十八年(一九五三年)に教え子たちが濯の古稀を記念、濯の訳詩約七十編を集め、「形影集」(白水社)を出版します。教え子たちとは仏文学者の渡辺一夫、小松清、田辺貞之助、川口篤、文芸評論家の伊藤整、心理学者の波多野完治、国文学者の吉田精一です。その人脈は濯の教育者としての一端を物語るものでしょう。
 先に引用した山下肇・編の「内藤濯先生略年譜」は「形影集」のために作成されたものですが、年譜の「昭和十四年」には「この前後より、『詩の朗読』の事に携わり、一つの生涯の仕事と思い初む。これを機とし、高村光太郎と屡々席を共にす」とあります。
 「詩の朗読」はフランスの「マチネ・ポエチック」の日本版でした。ただ、長男の初穂は「父の国語醇化への思いは純粋であり、それは耳に美しい日本語の追求であったろう」としながらも、戦時体制が強化される中では父親の濯が参加した大政翼賛会の「詩の朗読研究会」などの運動は「国語醇化を国民統合の具とする国家主義勢力に利用される運命を招いたといわざるを得ない」(「星の王子の影とかたちと」)と指摘します。
 昭和二十年(一九四五年)八月十五日で戦争は終わりましたが、敗戦後も濯の「詩の朗読」運動は続きます。戦時中、濯と行動を共にした児童文学者の石森延男は当時を回想しつつ次のように書いています。

 「戦意昂揚ばかりのむくつけき時代に、わたしたちは、日本のことばのこころよいひびきを探ね、そのしらべを少年少女たちに伝えようとした。…周囲がどう変わろうが、時代がどのように流れようが、日本語が残って、日本人が、日本語を使うかぎり、それに無関心ではおれない。いちはやく昭和女子大に朗読教室を設けたり、『詩に遊ぶ集い』を開いたりして学生たちを中心に世の心ある人に話しことばに気づかせようとつとめるあなたであった」 (内藤濯 「星の王子とわたし」筑摩書房の「あとがき」より)。

 戦後、濯は当面の収入源として自宅でフランス語教室を開きます。

  娘らが土曜日ごとにフランス語を教はりにくる家となりたり

 その昔、金子薫園の門に出入りした濯はいろんな折りに歌を詠んでいます。没後、「折々ぐさ」(発行者=内藤優子、私家版)としてまとめられますが、これは「戦後詠」の一首です。戦後、 「詩の朗読研究会」も再出発します。戦意昂揚の具にされた「詩の朗読運動」を正道に戻すためでした。そして昭和二十四年、「詩の朗読研究会」の発起人の一人である俳優座の千田是也に頼まれ、ボーマルシェの「フィガロの結婚」の上演台本の制作を担当します。この興行は大当たりで五十日間のロングランを記録、千田から「舞台と見物との交流が、あれほど見事に行われたことは、はじめての経験だった」(「未知の人への返書」)と感謝されます。濯の訳出したセリフへの謝意でしょう。

   ○「星の王子さま」との出会い

 さて昭和二十七年(一九五二年)六月、児童文学者の石井桃子から一冊の本が持ち込まれます。サン=テクジュペリの「Le Petit Prince(小さな王子)」です。この本の訳者としては「先生をおいてほかにいない」という依頼でした。実はその前に翻訳の打診は仏文学者の山内義雄にあっています。山内義雄といえばロジェ・マルタン・デュ・ガールの大作「チボー家の人々」の翻訳で知られる大家です。ところが山内の口から出た言葉は「この美しいリズムを訳文に活かせるのは、内藤先生のほかにありません」だったといいます。サン=テクジュペリは飛行士にして作家、「南方郵便機」「夜間飛行」「人間の土地」「戦う操縦士」などの作品で知られ、アンドレ・マルローと並び、一九三〇年代の「行動の文学」の代表者とされます。彼は一九四四年七月末、アルジェから偵察飛行に出たまま不帰の人になります。
 原書を読み始めた濯は、序文の「おとなは、だれもはじめは子供だった。しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない」に感動し、訳にとりかかります。濯、七十歳のときです。濯はこの本は「思索の書でもあり、社会批判の書でもあり、恋愛の書でもあって、世にいう童話の域をはるかに超えている」「そこには散文の域を超えた、まったくの詩で息づいているリズムの高雅さを感じる」(「未知の人への返書」)と言います。翻訳された本は「星の王子さま」というタイトルで翌年五月、岩波書店から岩波少年文庫の一冊として出版されます。それは濯が生涯をかけ、追い求めてきた「日本語としておかしくない訳語の発見」の集大成だったと思われます。
 「星の王子の影とかたちと」に収められている「鼎談・内藤濯の翻訳作法」によると、翻訳は口述筆記でした。フランス語の原文を一節ずつ濯が読み上げ、それを日本語にしたものを編集者が書き取り、読み上げます。読み上げには濯から「普通の話しかたで読んでください。思い入れなどはしないでください」との注文が付きました。読み上げてもらった後に濯は再度、原文に当たる。それを納得いくまで繰り返し、推敲を重ねたそうです。濯は「意訳」と言われるのを嫌い、「印象訳」と言ったようです。初穂によると「父は生前、つねに『翻訳とは原文のリズムを移す日本文学である』と言っていた」そうです。このほか鼎談では「人の声にのった言葉、声のリズムにのった言葉、言葉の音楽性を先生(濯)は大事にされた」「先生の言葉の美意識は、江戸時代から地続きだと思います。明治時代に概念の言葉がみんな漢語にされ、漢語がたくさん作られましたが、先生は、それが日本語としてなじまないと感じられた」などの指摘があります。これらの翻訳作法の集大成が「星の王子さま」であり、それが幅広く読者を獲得することになったのでしょう。昭和三十七年(一九六二年)にはサン=テクジュペリによる挿絵(水彩画)が色刷りで入った「愛蔵版・星の王子さま」も出版されます。愛蔵版は美智子妃殿下に献呈されます。
 濯の歌集「折々ぐさ」には「星の王子さま」と題し、次の歌が収められています。

  いづこかにかすむ宵なりほのぼのと星の王子の影とかたちと

 内藤初穂・著「星の王子の影とかたちと」の冒頭にはこの歌の譜面が掲載されています。譜面には「曲=美智子」とあり、「皇后陛下美智子さまが皇太子妃でいらしたころ、内藤濯の和歌にこの曲をおつけ下さいました」「御曲掲載をお許し下さいましたことを、心から御礼申し上げます」という初穂のお礼の言葉が記されています。
 昭和四十六年(一九七一年)一月、濯は新年歌会始めの召人になります。
 そして濯は昭和五十二年(一九七七年)九月十九日に亡くなります。九十四歳でした。遺書には葬儀について「僧侶、牧師の介在無用 ただし無宗教葬を好まず」とありました。そこに若き日のユニテリアンのなごりを感じる人もいます。
 内藤濯・訳の「星の王子さま」は刊行五十周年(二〇〇三年)で六百万部を超えたとされ、熊本市出水の熊本県立図書館の一隅には平成十七年(二〇〇五年)、熊本日仏協会により「星の王子さま」内藤濯文学碑が建立されました。内藤濯生誕百二十年、サン=テクジュペリ没後六十年を記念、御影石の碑にはサン=テクジュペリの序文から採った「おとなは、だれも、はじめは子どもだった…」が刻まれています。
                                  (文中敬称略)

 内藤初穂「星の王子の影とかたちと」(筑摩書房)
 内藤 濯「星の王子とわたし」(文藝春秋社)
   〃 「未知の人への返書」(中央公論社) 
   〃 「思索の日曜日」(木耳社)
   〃 「落穂拾いの記」(岩波書店)
   〃 「星の王子パリ日記」(グラフ社)

書斎にて(昭和10年)

書斎にて(昭和10年)
内藤濯氏、優子夫人とともに。

日本児童文学学会主催『星の王子さまの会』(昭和38年)

日本児童文学学会主催『星の王子さまの会』(昭和38年)
前列右から2番目が内藤濯氏。



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