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濱名 志松 (はまな しまつ)


靆勝〇崗

キリシタン文化研究者、天草を中心に研究
大正元年 (一九一二年) 十月十二日生
天草市出身

業績概要

 昭和十一年以降、三十五年間にわたり、天草地域の学校にて教職を務める。この間、天草を中心に広く九州の民俗、文化等の調査研究を精力的に行い、その成果を「肥後の昔話」、「天草伝説集」、「九州キリシタン新風土記」などの数々の著作にまとめる。これらは天草地域の歴史文化についての基本的な文献となっており、司馬遼太郎の「街道をゆく」の中にも、取材の際の氏との交流が紹介されている。氏の研究対象のうちには、与謝野鉄幹や北原白秋らの紀行文「五足の靴」があり、その成果は「五足の靴と熊本・天草」としてまとめられた。文芸の分野でも旺盛な活動を続け、昭和四十四年には「みさき短歌会」を創設し、後継者養成にも努めた。また、昭和五十九年には「五足の靴顕彰全国短歌大会」を創設し、今年で二十三回目を数えるこの大会は、国内有数の短歌大会として全国の歌人に知られている。さらに、作詞家としてもその能力を遺憾なく発揮し、県警本部機動隊歌、町歌、校歌等数多く手がけ、特に天草地域の学校における校歌は五十校を超え、今なお多くの学校で愛唱され、日々児童生徒に大きな影響を与えている。 昭和十一年  天草地域で教職に就く(天草郡久玉尋常高等小学校を初任地に三十五年に亘り教職を務める。)

昭和四十五年 「天草の民話」出版 この後、数々の著作あり
昭和四十七年 旧天草町の教育長に就任
昭和五十八年 「五足の靴と熊本・天草」出版
平成元年    「九州キリシタン新風土記」出版
平成三年    熊日賞受賞
平成三年    勲五等雙光旭日賞受章
平成四年    荒木精之賞受賞
平成七年    地域文化功労者文部大臣表彰受賞
平成十年    天草観光協会賞、日本観光協会九州支部長賞受賞

靆昌崗湘繊縮声四十年の“五人づれ”五足の靴の光芒を追い続けて―

                     歌誌 「みさき」 代表 山 口 睦 子


   “はじめに”

 精魂込めた膨大な仕事の量である。靆召生を亨けて爾来九十六年の人生のどの部分を切り取ってみても 自分を甘やかした放肆の気配など毛ほどもない。大正元年に、現在の天草市魚貫町に五人兄弟の二男として生まれ、昭和十一年、天草郡久玉小学校を振り出しにしての教師としての長い歳月、それに続く教育行政者としての日々、大正昭和から平成への安らかならぬ苛酷な戦中戦後の混乱を生き抜き、その忽忙の間を縫っての詩作、歌作、数多の著作群。 若き日の文学との邂逅を実らせた数々の文学碑建立への尽力、短歌人の育成、歌誌の発行などその時の天与の使命を全うしつつどの場面にも遅々としてたゆみない努力と、自分を律する厳しさと、真摯なまっすぐな瞳の横顔を見せている。時にその自分を律する厳しさは周囲を息苦しくもさせただろうが、そのようにしてしか生きられない、あの時代が背負ったある種の悲愴感や使命感、愚直な筋金入りの気骨が靆召陵歴のどの時代にも見え隠れするのである。 時代の波に逆らわず、攫われず、怠らない努力を見事に結実させた選ばれた人なのである。類い稀な出会いとそれから派生する諸相を人生に昇華し得た努力と強運の人でもある。

   “少年期”

 靆召和臉妓鞠、現在の天草市魚貫町に、旧姓田代志松として五人兄弟の二男に生まれている。明治の日清・日露の戦争を経て、大正三年の第一次世界大戦に依る未曾有の好景気と、それに続く大恐慌が席巻した混乱の世に生を享けた。昭和十六年に始まる大東亜戦争に向かって、富国強兵の軍国主義華やかな軍靴の響きの絶えない戦雲急な時代を、文字通りの軍国少年として過ごした青少年期である。
 天草島の貧困は江戸後期から他国(国内)への出稼ぎ者を盛んにし、明治期に入ると海外へ出稼ぐようになり、なかでも若い女性が身をひさぎに海外へ出てゆく「からゆきさん」の不幸な歴史を生んだ。靆召生まれた魚貫は天草無煙炭産出の有数の炭鉱があり、石炭産業に湧いた好景気とその後の恐慌の時代の洗礼を、天草の片田舎とは言え他のどの地域より色濃く受けたことであろう。靆召寮験兇鯆未靴討陵匹襪ぬバックボーン、膨大な仕事の底流に変わらず韻いている他者への愛は、生を享けた土地に深く根差しているような気がしてならない。しかし少年期の靆召砲个蠅个蠅侶街饐年の面影はない。

 吾が接ぎし桃の新芽の青々と日増しに伸びてこころうれしも

 “処女の友”という機関紙の短歌欄に応募して、当時の女流歌人中河幹子選の天位になった十四才の時の作である。当時新聞を購読する人も極端に少なく、短歌誌など皆無で詩歌など女子供の範疇であったであろう。身辺にただ一部あった“処女の友”の短歌欄に実弟泊(トマル)と女名で応募を競ったという。この天位の作品はふるさとの青山のあわいに、貧しいながら豊かな詩歌への心を育んだ靆召陵符彜が垣間見えるようにみずみずしい。生家の農業を手伝いつつ食糧の補充を兼ねての柿、桃、枇杷などの果樹類を育て、その接木に精を出し成長を喜ぶ少年期であった。

   “教師として”

 昭和十一年、天草郡久玉尋常高等小学校准教員を振り出しに、教師としての勤務年数三十五年を数え、定年退職後天草郡天草町の教育長として僻地教育行政に尽力した八年を加えると、実に四十三年のひたすらな教育に携わった春秋であった。昭和二十二年の学制改革まで青年学校、県立高等女学校に勤務し、戦時下教育に専念。婦人会、青年団など地域社会教育の振興充実に尽粋した。靆召育てた大江青年団が、昭和二十七年の吉井勇歌碑建立の際、誠心誠意靆召鮖戮┐導萍するのである。県立本渡女学校では空襲激化の昭和二十年、各地区小学校に委託しての分散教育を実施し、戦後大禍なく全員の本校復帰を果たしている。当時女学校の国語教育に、半ば強制的に詠ませた短歌を保存したノートが靆召亮蟲に残っているが、ノートとは名ばかりの粗悪なザラ紙を綴じたもので、長い歳月に晒されながらも奇蹟のように保存されて来たのは短歌教育に捧げた靆召両霰を物語るものだろう。その女学生たちが天草の文化の根底を支える短歌人層のリーダー的存在に育ち、“黒潮会”という同窓生グループが今なお実に六十年余の師弟愛の交流を重ねている。その後、戦後教育の混乱のなかに歴任する僻地校で改革や実践を試みた。修学旅行の実施、学校給食の開設、僻地における生徒の学力向上の為の父兄への啓蒙。昭和三十四年からの指導主事在任中には、戦後教育課程の改訂に全国協議会での研修を重ね、昭和三十七年の改訂小中学校教育課程の移行措置に心血を注いでいる。農村地帯の本町小学校校長時代には、テレビ、ラジオの放送を媒体としての学習指導を展開させ、金銭教育の一環としての「子ども銀行」を推進した。昭和四十三年本渡北小在任中は、NHK学校放送の親子同時視聴と親子の対話を中心にしての教育実践を試みている。在任中天草教育所長を兼務し天草小中学校行政に携わったが、特殊学級児童の夏季合宿訓練が、天草教育研究所特殊学級部門と、「白い雲の会」の協力に依り実施され現在に至っている。 又小学生用「あまくさ」、中学生用「天草読本」を編集刊行し、郡市小中学校の各教科の副読本として郷土の歴史、文学、産業への啓発となり現在も活用されているのは、靆召量餌史、文学への造詣の深さのたまものであろう。教育長時代も僻地教育における教育振興に惜しみない努力と情熱を注ぎ、めざましい実績をあげている。このような靆召龍技佞箸靴討稜銃暗なひたすらな履歴を見てゆくと、その原動力となった尽きせぬ情熱は、紛れもない“他者への愛”ではなかったか。戦後の疲弊した世の中への、混乱の極みの教育への、それらから影響を余儀なくされるいたいけな児童たちへの、ゆえなく差別を受け続けて来た障害者への、そして何より父祖の貧しい辺島天草への。

   “五足の靴との出会い”

 お訪ねすると、靆召亮蟲にはいつのまにか魔法のように北原白秋著、「明治大正詩史概観」の古ぼけた改造社文庫本があった。昭和十三年日中戦争の応召下生来の宿痾が重篤となり、中支武昌の野戦病院に入院を余儀なくされていた靆召髻⊃劼佑突茲薪形陲旅盡予仗箸僚招慨埜酩悄∋涯ウメノからの見舞いの一冊であった。文字に飢え文学などというものから断絶された戦地の前線にあって、この本に寄せる靆召隆況磴いかばかりだったか。その著書の「邪宗門詩風の曙」の頃に瞠目し、固いベッドに輾転反側して眠れなかった驚きと興奮を後世ことある毎に繰り返しくり返し語り続けているのである。これは僥倖のような邂逅であった。明治四十年の夏、辺島天草のこともあろうに自分の赴任地、当時名にし負う僻村大江に今をときめく盛名の詩人歌人達が海を渡り、険岨な杣道を越えてその大靴の足跡を残していたのである。三十五才の与謝野寛、当時無名の大学生北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野萬里の五足の靴との運命的な出逢いだった。ここを出発点とした後世の「五足の靴との邂逅」は、しかし向後の幸運に恵まれなかったならば、誕生の陽の目を見ることはなかったのである。
 まず天草出身の軍医との出会いがあった。靆召龍技佞箸靴討了饉舛、銃後の若ものたちの教育の基盤に必要と評価する軍医の祖国を憂うる心があり、また戦地最前線へ送られる直前、命令により認めた住所氏名の、靆召凌佑箸覆蠅鮗┐甲疾気つ美しい筆記が心ある上層部の心に届いていたという幸いもあった。いくつかの幸運の巡り合わせはたまさかのものではなく、やはり靆召寮戸茲瞭端舛招き寄せたものであったろう。一枚の写真が残されている。手前の従軍看護婦姿の若い女性の後方に、病衣姿で本に見入る坊主頭の青年がいる。青年特有の若いうなじが清々しい。靆召生涯脳裏に刻んだ中支武昌の野戦病院で、「五足の靴」に出会ったまさにその時のスナップである。どういう経緯で写された写真であったか。戦争による多くの様々な死と背中合わせだった自分の幸運とを胸に刻んで、からくも帰還する背のうの底に、この写真と「明治大正詩史概観」の文庫本が秘められていた。五足の靴の種は靆召龍賛爾蒔かれて芽吹きの刻を待つことになったのである。
 命を得た靆召蓮県立本渡高等女学校で教鞭を取りつつ図書館の所蔵の書籍に「五足の靴」関連を辿りはじめる。 若い俊秀達五人が残した詩歌、脚本、小説などそれらは多岐にわたった。明治末期から大正にかけての彼らによる文芸復興や、盛名を馳せためざましい諸作品にあらわれていたのは、九州の風土と、長崎天草に霧のように漂う南蛮文化だった。その根源に辿り着いたのち、靆召呂海痢峩綵の旅」を知るべく当時ただ一人在世していた吉井勇に、書簡を送ることになる。昭和二十四年に始まったこの交流に依って、吉井勇から昭和二十二年刊野田宇太郎著「パンの会」を贈られ、初めて「五足の靴」の旅紀行文の存在を知る。木下杢太郎の研究者であった野田宇太郎によって、当時東京二六新聞に連載された五人づれという無記名の、新詩社同人の九州旅行の全貌が世にあきらかになるのである。靆召呂海痢峺淆の靴」を総括し、顕彰するべく吉井勇の歌碑建立を企画し実現に向けて動き出す。時代は戦後幾許もない、いまだ混沌のなかのそれも文化果てる西海の孤島天草だった。資金調達から手さぐりの苦労をしつつ当時の青年団の手弁当の協力を得て、天草大江天主堂前に歌碑建立が成ったのは昭和二十七年であった。
 
 白秋とともに泊りし天草の大江の宿は伴天連の宿

 歌碑除幕式を、荒天の為一日遅れて来訪した吉井勇は、この碑の前でしばし瞑目したという。はからずも口をついた勇の即詠は、若き日を偲ぶ惻々たる心中を余すなく伝えている。

 ともにゆきし友みなあらず我一人老いてまた踏む天草の島

 平成十三年、吉井勇研究家塩谷勝により、第一歌碑に隣り合わせてこの第二歌碑が建立された。靆召心血を注いだ勇の第一歌碑建立を皮切りに、治まり始めた世の理解を得て、その後“五足の靴”の歌碑、詩碑が整備されてゆくこととなった。

 昭和四十一年 与謝野鉄寛 晶子歌碑    十三佛公園
 昭和四十九年 与謝野鉄寛 晶子歌碑    天草パールセンター
 昭和四十二年 北原白秋詩碑        天草切支丹館前庭人工池
 平成十三年  靆昌崗勝仝淆の靴顕彰歌碑 五足の靴遊歩道入口
 平成十六年  木下杢太郎詩碑 天草ロザリオ館広場
平成十八年  平野萬里歌碑 天草ロザリオ館歌碑

   “脈々と五足の靴”

  「五足の靴」に貫かれた靆召糧樟犬砲脇斉颪ご多の出会いがあった。数多の綺羅星のような著名人、研究者、学者など枚挙に遑が無い。昭和二十七年歌碑建立の吉井勇を始め、同年来島した“文学散歩”の創始者野田宇太郎はその歌碑を喜び天主堂付近を共に散策した。教会の神父さんに会いクルスを見せてもらいたい旨を告げたが断られ、「ガルニエ神父様のような方は、もうおられませんから」と靆召気の毒そうだったことなど、「九州文学散歩」の著作にその当時のことが詳らかだ。
  「街道をゆく」の取材に来島した司馬遼太郎と、誘われて温泉に入った思い出は愉快な出来事だったようで、そのことを話す靆召隆蕕呂い弔睿造鵑任い襦女優の新珠三千代を伴った劇作家菊田一夫は、天草の素朴な風趣をことのほか喜んだという。明るい花を描いた色紙がずっと靆召竜鏨屬鮠っていた。「五足の靴」を顕彰する歌碑の隣に併設された歌柱の木俣修とは、茂木根の国際ホテルで深更まで語りあった。資料や歌稿や原稿用紙をぎっしり詰めた大鞄を提げていて、沁みじみ本渡の町を“趣きのある風格の町”と評したという。歌人の大悟法利雄、安部太、作家の堀田善衛などその多彩な顔ぶれとの出逢いは、脈々として原点の「五足の靴」に辿り着くのである。
町で整備した“五足の靴文学遊歩道入口”から、だらだらと坂を登った海を見放ける広やかな丘に、永世に「五足の靴」を顕彰するという気概そのまま、靆召硫糧蠅詫揚迫らざるおもむきにどっしりと立つ。

 寛、 白秋勇杢太郎萬里らがたどりし道ぞ五足の靴で

 急坂の峡道に消えてゆく明治の五人の若い俊英達の背を、目を細めて見守っているようにも見えるのだ。中支武昌の病床から、夢を育んでひたすら追いつづけた、マグマのような赫奕とした才能を孕んだ青春の日の俊秀達の背。靆召砲蓮吾が子にも孫にも見えていたことだろう。実に六十年が経ち九十才になっていた。

   “歌歴”―「岬」と「五足の靴顕彰全国短歌大会」の誕生―

 十四才で既に投稿歴を持つ靆召硫領鬚論戸茲里發里里茲Δ膨垢ぁしかし昭和六年発行の、川本重雄主宰「龍燈」に依り本格的に作歌を始めたのは終戦後であったようだ。生田蝶介の「吾妹」の同人でもあった。昭和二十一年一月号「龍燈」に、ソロモン海戦に戦死した実弟を悼む長歌を寄せている。萬葉集の東歌に心を寄せた靆召虜裕い鯤語る、悲傷切々たる慟哭の歌である。歌への情熱に靆召惑銃暗であった。女学校の国語教育に古典を奨励し、萬葉集の鑑賞を授業に盛り込み生徒の作歌意欲を促すことに努めている。敗戦の翌年昭和二十一年には、天草で初めての短歌大会を開催している。郷土紙「みくに」の協力を得て、「龍燈」と天草在住の参加者を合わせての、天草短歌史上はじめての画期的な短歌会だった。これを期に地域の青年層や知識層に短歌への関心、理解が深まって行った。その頃創刊されたもう一つの郷土紙「天草民報」の新年文芸欄を、終刊まで選者として努め、その時活躍した新鋭の幾人かがのちに靆召創刊する歌誌「岬」の同人の母体となった。天草短歌会のその後の中核となったのは、昭和三十八年開設された本渡婦人会短歌教室である。靆召和膵召惶郷する昭和四十八年迄の十一年間、校務のかたわらその指導に当たっている。教室では「緋椿」という歌誌を出し、天草の短歌の地層が出来つつあった。昭和四十二年五橋架設を期に、熊本日日新聞地方部長筑紫汎三が天草版を独立させ天草歌壇を設けて、廃止されるまでの五年間、靆召倭者として天草のみならず県南部の投稿歌の選歌をすることになる。これら様々の機会が集約されて、発表の場として昭和四十四年に歌誌「岬」を誕生させることになる。少年の頃心のおもむくままにただひとりで詠み始めた短歌が、幾多の短歌人を育てる機会を得、「岬」に結実するまでの長い歳月の過程に用意されていたような豊かな人脈と、機会を捕らえて一歩一歩その試歩を確実にしてゆく靆召糧麕泙米端舛魔嫐椶垢襪里任△襦「岬」は現職退職、教育長時代、また幾つかの病気療養を挟みつつも順調に発行され終刊の二百四十四号を数えた。平成十七年九十四才であった。「吾妹」の後牧水系の「創作」に拠り、昭和五十九年から十年余熊本支社長として多くの歌友を育てて来た。平成八年には、熊日文学賞にノミネートされた歌集、「土踏めば土のかなしみ」を上梓している。
 昭和五十九年に始まった「五足の靴顕彰全国短歌大会」も、今年平成二十年に、二十三回を数えた。「岬」短歌会と天草町との共催で始まったこの短歌大会は、最初「九州大会」を冠した小規模な出発であった。五足の靴顕彰への執念のような靆召両霰と、それを支える当時の町長森安宏の熱意なくして全国へ発信する大会に育つことはなかったであろう。二十三回大会に選者として出席した靆召蓮五足の靴顕彰の原点ともいうべき意義を性急に訴えてやまなかった。その生涯を通じて幾たび繰り返したかしれぬやみがたい切実の吐露に、じっと耳を傾けていた歌人河野裕子のこの上ない優しい視線が印象的だった。姑息な体裁などかなぐり捨てた靆召凌深造輝いていた。

   “原点へ”

 九十六歳の今日迄、倦むことのなかった靆召了纏量は膨大な嵩である。五足の靴の旅のバイブルのような「五足の靴と熊本・天草」から、「天草の土となりて ガルニエ神父伝」へ、そして九州のキリシタン研究へ、“五足の靴”から派生して行った靆召梁跡が見える。踏査したキリシタン遺跡は、九州の各地を病膏盲に入らむばかりに徹底し、「九州キリシタン風土記」という七百四十四頁にのぼる大部の著作に結実し、畢生の大作となった。民話、説話、伝説の蒐集もまた徹底し、それらを収めた民俗学分野の著作群がある。その他にも単発の新聞掲載の文学、随筆、論文など多岐にわたる執筆があり、各地の学校の校歌制作や数知れない講演活動などその精力的な活躍は、人が成し得る能力の限界をはるかに凌駕している。そしてその合い間を縫っての詩作、歌作の創作活動がある。不死鳥のように全力疾走し、試みたあらゆる分野での仕事の完成を見つつ、病いを得て靆召諒發澆呂茲Δ笋緩やかになった。愛息晶光と最良の伴侶であったツエ子を、人生の晩年近く失う不幸も重なった。
 午後のきまった時間に山畑へ行き日々無心に草を取り、ものの種を蒔き、農にいそしむ。幼い日親しんだ土の匂いが芳しい。夜ともなればひとりの床で、束ねた広告紙の裏に今日詠んだ歌を書き連ねてゆく。終焉を見つつあるような寂しい、けれど安らぎに満ちたうたがめっきり増えた。
 夢はいつも帰ってゆく。若き日繰り返し読んだ島木赤彦の「萬葉集鑑賞」。風格のある町と本渡を賞でた木俣修、温泉ではしゃいだ司馬遼太郎、歌碑の前で心に去来するものに耐えていた吉井勇、不治の宿痾を抱えつつ渾身の歌を詠み続けた無名の「岬」の同人のこと。そして決まってあの若者たち。柳川のトンカジョン白秋、九州旅行の写真の何処にもどこか寂しげな寛、その双肩に「明星」の命運を担っていたのだ。俊秀の名を恣にしのち医学界で世界の権威となった杢太郎、終生、寛、晶子に寄り添い支え続けた萬里、そして勇。現実に逢うことの叶わなかった明治四十年のこの五人の若者達が、自分をここまで歩かせて来たと、靆召量瓦呂い弔發修海惶△蠱紊。パアテルさんの澄んだ声が韻く。「もぉすけぇ、よか水をくんで来なしゃれ」。
 靆召瞭々は原点へ帰って来た。一場の夢のような慌しい日々が過ぎて、その忽忙の日には余力でしかなかった短歌に老いてひとりの夜を慰撫されている。研究や著作の大半は、中支武昌ではじめて目にした“五足の靴”からはじまったのだ。靆召硫瓩来し方を彩った成功の数々は、歌に導かれた五足の靴との邂逅に帰するのである。生真面目な真しな、倦まない努力の長い歳月の果に、今、靆召六催擇里茲Δ文凝世惶△辰突茲拭

 土あれば妻亡きあとの寂しさも心まぎれて畑耕やす

 辺島の無援に生きて来し一世海に没る陽に今日もたたずむ      靆昌崗
                              (本文敬称略)

「五足の靴」顕彰第1回九州短歌大会(昭和59年)

「五足の靴」顕彰第1回九州短歌大会(昭和59年)
「五足の靴と天草」を演題として講演中の靆昌崗昌瓠(写真中央)

妻とともに(平成9年頃)

妻とともに(平成9年頃)
「九州キリシタン新風土記」などの靆昌崗昌瓠兵命榛検砲凌堯垢涼作は、妻ツエ子氏(写真右)とともに、実際にその土地に出向き、自分の目で確認してまとめられたもの。



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