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徳永 直 (とくなが すなお)



徳永 直

プロレタリア作家
明治三十二年 (一八九九年) 一月二十日生
熊本市出身 故人

業績概要

 日本プロレタリア作家同盟に参加し、代表作「太陽のない街」を発表。プロレタリア作家として文学史に名を残す。
 特定の知識人・趣味人だけのものであった文学が労働者に受け入れられるきっかけをつくり、小説の読者層を大きく変えたと評価されている。代表作「太陽のない街」はベストセラーとなり、映画化や戯曲化され、また、世界各国にも翻訳出版されている。さらに、戦後、新日本文学会を結成し、労働者文学の育成、推進にあたる。今年没後五十年を記念し、各種行事が数多く開催された。

明治四十四年 黒髪尋常小学校を卒業。
明治四十五年 九州日日新聞社の文選工となる。以降、商店の丁稚奉公、熊本煙草専売局職工、発電所の見習 い工などの職業に従事。
大正九年   再び九州日日新聞社の文選工となり、熊本印刷労働組合創立に参画。
大正十年   島原時事新報社に雇われ、島原半島に渡る。そこでストを行い、島原を追放される。
大正十一年  上京。博文館印刷所の植字工となる。出版従業員組合創立。博文館支部責任者となる。
大正十三年  博文館印刷所の同盟休業に参加。
大正十五年  従業員の一斉総罷業を決行。争議が惨敗し解雇される。
昭和四年   「太陽のない街」を「戦旗」に発表。日本プロレタリア作家同盟に加入。(川端康成が「文芸 時評」で高く評価する。)
昭和五年   「太陽のない街」が築地小劇場で上演される。
昭和九年   「冬枯れ」を『中央公論』に発表、以後『改造』『新潮』等に小説発表。多数に及ぶ。
昭和二十年  新日本文学会の創立に、発起人の一人として参加。

昭和三十三年 死去。遺稿集「一つの歴史」刊行。

昭和五十三年 熊本市黒髪町、泰勝寺入口に徳永直の文学碑建立。
昭和五十四年 「徳永直短篇選集」出版。
平成二十年  没後五十年を記念して、「徳永直文学選集」を出版。シンポジウムなど文学イベントを開催。

不屈の文筆家 ―労働文学の総帥・徳永直―

                        日本文藝家協会会員 中 村 青 史


    「太陽のない街」 出現

 一九二九(昭和四)年後半の新聞や文芸雑誌は色めき立っていた。『戦旗』という雑誌に「蟹工船」と「太陽のない街」が同時に連載されていたからである。「蟹工船」の作者は、すでに「防雪林」や「不在地主」などにより名の知れていた小林多喜二であったが、「太陽のない街」の作者は全く無名の新進であった。
 川端康成はこう書いている。「『戦旗』六月号及び七月号の『太陽のない街』を読んだ。徳永直氏といふ人の連載長篇小説である。『といふ人』 といふ程に、 私は徳永直氏については何も知らず、 未完の小説を批評するのもいかがかと思われるが、今月の何十篇かの作品のうち私を最も明るくしてくれたものとして、 その題名だけでも誌して置きたい喜びを感じた。」「この作品の表現の歯切れのいい平明さと、全体の明るい健康さと極めて自然に出て来る力強さと、材料の配置と筋の展開との新鮮さと、或る程度の感傷と衝激とーそれらは労働者ばかりが喜ぶものではない。」 (『文芸春秋』文芸時評、昭和四年八月一日第七年八号)と。
 また、熊本出身で、当時若手文芸評論家の第一人者であった蔵原惟人は、「(蟹工船は)悲惨なもの、汚いものに対する幾分かのインテリゲンチャ的な感傷・偏愛が、まだプロレタリア的な健康な明るさを妨げてゐる点が、その欠点である。これに比較すると、同じ『戦旗』に連載されはじめた徳永直の長篇『太陽のない街』は、少なくともこの点だけでは、より健康な明るさをもってゐる。」(『東京朝日新聞』作品と批評(二)、昭和四年六月十八日五面)と、二人とも「太陽のない街」を「明るく健康」だと評している。
 プロレタリア文学を「暗い」ものと思いこんでいた人々にとっては意外な評であろう。そのことについての解説は他に回すとして、昭和四年当時の日本は「暗」かった。熊本市では印刷所職工の解雇反対ストライキが起こったり(『熊本昭和史年表』二月五日)、鹿本郡で小作争議が激化したり(同二月頃)、天草では生活費が一人年十円という調査報告が出たり(同八月頃)といった情況であった。教員の俸給不払いや減俸は、熊本でも出ていたが、全国的なもので問題化していた。大学卒業者の就職難も深刻で、東京帝大卒の就職率が三十%であった。(同三月)「大学は出たけれど」という言葉が流行ったのもこの頃である。
 「太陽のない街」は、国内で大きな反響を呼んだばかりでなく、一九三〇(昭和五)年にはベルリンでドイツ語訳が出版され話題になった。続いてロシア語訳、スペイン語訳、フランス語訳、ウクライナ語訳、中国語訳、ハンガリー語訳が出版された。世界の言語の大半を占めたことになる。

   生い立ち

 一八九九(明治三十二)年一月二十日、飽託郡花園村(現熊本市花園)で、父徳永磯吉、母ソメの長男として生まれる。その後年月は不明だが飽託郡黒髪村(現熊本市黒髪一丁目)に転居。家の職業は又小作(またこさく)であったらしい(直接小作人から又借りしている隠れ小作人で、生活は全く不安定であった)。母は二十三連隊の営内に残飯仕入れに行き、それを近所の貧乏な人々に売って生計を助けていた。また孟宗竹で竹箸や竹柄杓を作って朝市で売っていた。直は就学前から竹箸作りに従事していた。
 一九〇五(明治三十八)年黒髪小学校に入学したが、貧しい地域からの通学故に差別され、「残飯食い」とさげすまれ、「竹箸作り」「こんにゃく売り」といじめられた。しかも幼い弟妹の子守りのために、教室にはほとんど入れなかったという。それでも本をよく読み、自分で勉強して、学校の成績は良かったという。
 きびしい家庭での躾は直を大成させるのに役立った。「芸は身を助くるてちいう。世の中に覚えておいて損なものはなかばい。」「冗(くだ)らんことばいうてひねくれとらんと、さっさと仕事ばせい。働いて喰うに誰に遠慮が要 (い)るもんか」(「最初の記憶」)と、直が竹箸作りをいやがったりすると母親は怒鳴った。ある時は、母に手をとって教えられても、竹箸作りがうまくいかないと、「この不器用もんが、その手ば叩ツ切ってくれる」と言って、鉈を振りあげると台の上をたたきつけた。そんな厳しさもあったが、やさしい母親でもあった。次も「最初の記憶」からの引用である。

 右手の親指の頭がナイフの形なりに裂けて血が出た。次には左掌(ひだりて)の人差指が皮が破れて赤肌になった。しかし親指の頭に繃帯(ほうたい)しても、絆創膏(ばんそうこう)を貼っても不可(いけ)なかった。 それではナイフに神経がかよわなくて、箸はまるくならないのである。
 「よゥし、何だこれしき・・・・・」
 母はたびたび私の掌をとりあげて、指の頭の血を舐めてやりながら言った。

 小学生時の最大の労働体験は荷馬車引きであった。負傷していた父に代わって、弟と二人で熊本市から植木町まで氷詰めの生魚を運ぶ仕事であった。「馬」という作品はその時の体験を基に生まれたもので、中国では小学校の教材にもなっている。

   十一歳から労働者の仲間入り

 一九一〇(明治四十三)年、黒髪小学校六年生の第一学期が終わり夏休みとなった。そして九月に第二学期が始まったが、そこに徳永直の姿はなかった。彼は当時の第一高等女学校正門脇の中島印刷所の見習工として働いていたのである。(明治四十四年三月末、担任の先生が卒業証書を届けてくれたとある)。作品「幼い記憶」「喜ちゃんと勇ちゃん」にその頃のことが描かれている。
 二十三歳で上京するまで熊本市内を中心に労働に明け暮れた。そして職場も転々とした。九州日日新聞の文撰工、若宮米屋の丁稚奉公、熊本煙草専売局の職工、熊本電気会社第一発電所(立野)の見習工、島原の時事新報社記者といった具合である。初期の頃は立身出世の夢断ち難く、講義録による独学を続け、一時は近所の夜間中学錦城館にも通った。「他人の中」という作品に次のような箇所がある。

 私は海軍大将になるはずであった。
 最初はジョージ・ワシントンのように大統領になるつもりであったが、 日本には天皇陛下というものがあって、何となく大統領の坐り場所がない気がした。それでつぎには総理大臣になろうと思った。しかし総理大臣というのも、黒ッぽい洋服などきていて、あまり好きになれなかった。この志はもちろん米屋の小僧になる以前、町の印刷工場や、新聞社の印刷部で働いていたときから出来ていたもので、それが陸軍大将ではなく、海軍大将であったことはべつに理由はなかった。兎に角、私は海軍大将になるはずであった。

 そんな徳永直であったが、眼を悪くし、新聞社の文選工もやめ、江田島の兵学校志望もあきらめることになる。そして次に就職した煙草専売局で彼の人生における転換期を迎えることになる。米村鉄三との出会いであった。折しもロシア革命が起こった年であった。徳永の自筆年譜によれば、「米村鉄三という文学好きの同僚から影響を受け、クロポトキンの『青年に訴う』、ラッセルの論文、ソログープの『毒の園』、アルツィバーセフの『労働者セイリオフ』、ゴリキイの『チェルカッシュ』、ドストエフスキーの『死人の家』その他、ゾラ、モーパッサン、イブセンなどをよむ」とある。専売局時代のことは、小説「工場新聞」(一九三二)、「女工舎監の日記」(同)、「三人」(一九四一)、 「白い道」(一九四七)、「『たばこ』の話」(一九四八)に書かれている。立野の黒川発電所時代を題材にした作品には「阿蘇山」(一九三一)、「黎明期」(一九三四)、「黒い輪」(一九五七)がある。年譜によれば「米村鉄三および、従弟にあたる印刷工角田時雄(泡果)たちと、労働者ばかり三,四人が中心となって『労働者問題演説会』を計画する。ポスターはりをして熊本憲兵隊にかぎつけられ、熊本警察署に検束される。このため黒川発電所を首切られる」とある。一九二〇(大正九)年、再び九州日日新聞社の文撰工となる。徳永直の最初の文芸作品として「ズブズブのズボンに手をつき込んで没ち陽」という前衛短歌がある。これは安永信一郎著『熊本歌壇私記―私の短歌五十年―』に紹介されている。またこの年には、熊本印刷労働組合創立に参加。第一回熊本メーデーに参加している。五高に来た賀川豊彦を招いて「労働問題演説会」を開き、徳永も一席演説を行っている。この時期は五高生との交流もあり、新人会熊本支部にも参加する。後藤寿夫(のちの林房雄)と知り合うのもこの頃と思われる。

   上京

 一九二二(大正十一)年(二十三歳)、熊本では「アカ」ということで雇ってくれる職場がなくなり東京へ出ていくことになった。「白い道」という作品の最後の場面が熊本を離れるところである。

 「こっからお江戸は三百里というからなァー」
と、母親は、背の妹をゆすりあげていった。三吉の母親たちは、まだ東京のことを江戸といった。
 「わしが死んでも、たかい旅費つこうてもどってこんでもええが、おとっさんが死んだときゃあ、もどってきておくれなァ」
 三吉はうなずいた。うなずきながら歩きだした。途中でも、まだ見おくってるだろう母親の方をふりむかなかった。
 土堤道の杉のところで、彼女が野菊をつまんで、むねにもたれるようにして何かいったことも、いまは思いだしもしなかった。
 土堤道のつきる遠くで停車場の方から汽車の汽笛がきこえていたが、はやる心はなかった。ハンチングをかぶった学生のボルの姿は、ただひとつの道しるべだったけれど、小野たちとはべつな東京で、すぐ明日からも働き場所をめっけて、故郷に仕送りしなければならぬ生活の方が、まだ何倍も不安であった。足をかわすたびにポクリ、ポクリと、足くびまでうずめる砂ほこりが、尻ばしょりしている毛ずねまで染める。暑い午下りの熱気で、ドキン、ドキンと耳鳴りしている自分を意識しながら歩いている。その眼路(めじ)のはるかつきるまで、咽喉(のど)のひりつくような白くかわいた道がつづいていた。

 東京での最初の職場は、徳富蘇峰の民友社の印刷部の植字工であった。そこに数ヶ月いたが、より高い賃銀を求めて、小石川の博文館印刷所の植字工となった。その年暮れに出版従業員組合が創立され、徳永直は博文館支部の責任者となる。出版従業員組合の先輩に青野季吉、金子洋文、新居格、佐々木孝丸らがいて、彼等に小説を見てもらったりしている。その小説がどんなものであったかは不明。その二年後の一九二五(大正十四)年には「馬」「戦争雑記」「あまり者」の三作品が書かれ現存している。一九二三(大正十二)年関東大震災で被災するも軽傷、その翌年、宮城県登米町出身の佐藤トシヲと結婚。博文館印刷所の七日間にわたるストライキに参加、三割賃上げ、深夜業五割増しなどの要求を獲得する。その翌年、博文館は精美堂と合併し、共同印刷となる。一九二六(大正十五)年「太陽のない街」の題材となった共同印刷大争議が起き、争議は惨敗し、徳永直も解雇される。当時徳永は、従業員組合の幹部の一人で広報担当者であり、檄文やビラの文句等を書いていた。「太陽のない街」の作中のビラは、実際に争議に使用されていたものである。
 徳永は文章が書ける人、との評価は、労働者仲間の間で知られていた。が、小説というのは、ブルジョアジーの慰みものくらいに労働者大衆には受けとられていた時代で、小説を書く徳永は、あまり受けは良くなかったと考えられる。しかし解雇された仲間たちは、この大争議の顛末を後世に残すために徳永に小説を書くことをすすめたと言う。 これまで無名の労働者が、発表できる場は少なかった。ところが、この作品は熊本時代に知り合っていた林房雄によって『戦旗』に持ち込まれたのであった。『戦旗』は労働者や学生にとって、もっとも人気ある雑誌であった。

   光と陰

 「太陽のない街」で一躍日本プロレタリア文学の旗手に据えられた徳永直は、「失業都市東京」「赤色スポーツ」といった「太陽のない街」の続編とも言うべき作品をはじめ、「能率委員会」「小資本家」「千二百円」「約束手形三千八百円也」「嵐を衝いて」「失業自衛団」「豊年飢饉」「『赤い恋』以上」「戦列への道」「赤旗びらき」等々、矢継早に発表していった。しかし多くの評は、「太陽のない街」より上に出る作品はないと厳しいものであった。そんな中にあって「麦の芽」みたいな好編もあったのだが。
 一九三三(昭和八)年がやってきた。一月母ソメが亡くなった。「わしが死んでも、高い旅費つこうてもどってこんでもええ」と母親は言っていたが、原稿料がはいって懐具合がよかったのだろうか、母親の葬儀のため帰郷している。ところが二月十九日、小林多喜二が虐殺された。プロレタリア文学にとって嵐の到来である。徳永は日本プロレタリア作家同盟を脱退する。その翌年書かれた「冬枯れ」は、戦線脱落の言い訳けの作品だと評判が悪いが、文学的立場と生活的立場の間で苦悩する人間を、臆病者、卑怯者と自虐的に決めつける悲しい物語なのである。夢の一節はこうだ。

 それはたしか、郷里の田圃のようでもあれば、東京郊外のNあたりの原っぱでもある景色だった。夕方のように暗くて、風が轟々と唸っているのだ。自分の前方を仲間の作家が現在は獄中にいる筈のNやTや、それから去年から(伏字)Kなどが歩いている後姿だけが見える。自分は夫(それ)に追っつかなければならぬと考えているのだが、風が激しくてどうにも駈けられない。モガいてもモガいても足は同じところを堂々めぐりしているのだ。気がつくと仲間たちの姿はどこにも見えず、広い原っぱに自分一人だけが取り残されていた。

 この作品を書いた翌年、かつて島原での体験をもとに「女の産地」を書いて気晴らしをしようと試みるのだが、神経衰弱がひどくなり、齋藤茂吉の青山脳病院、式場隆三郎の国府台病院、東大附属病院の神経科などで診察を受けている。

   労働者文学を掲げて再起

 一九三七(昭和十二)年十二月二十五日、「太陽のない街」「失業都市東京」の絶版を声明し、プロレタリア作家としての徳永直は死んだ。と同時に、「飛行機小僧」「八年制」「はたらく一家」を発表して息を吹き返した。労働者は何も都市労働者、工場労働者ばかりではなかった。彼は地方で自身、若年労働者であったことに思い当たった。かくして、「最初の記憶」「他人の中」の名作は生まれたのである。
 一九三八(昭和十三)年、三和書房から『はたらく一家』が刊行された。「はたらく一家」「彼岸」「父親の覚え書」「陽子・道代・町子」「最初の記憶」「弱い強盗」「梶川ツルの死」「木槿のある村」「冬空」「八年制」の十編が収められた。自序の中で徳永は、「私としては従来十冊ばかりの小説集を出したうちで、こんどの短篇集が一等愛着がふかい。たとえ善きにしろ、悪しきにしろ、私はこんなものしか書けないが、またこんなものなら書く、といふ、一種のあきらめに似た一つの安定感もあります」と書いている。控えめながら、苦悶の谷底からはい上がってきた、開き直りの気持ちが伝わってくる。また広津和郎は「徳永氏の小説集に寄す」という序文の中で、

 近頃はプロレタリア文学とかブルジョア文学とかいふ文学の対立が薄められ、烈しい党派的な価値判断によって「敵」か「味方」かと区分をつけ、力味返って睨み合ふやうな傾向がなくなって来たが、さういふ傾向の盛んだった時代から、私は徳永氏を現代の日本文壇で最も小説のうまい作家の一人だと思ってゐた。誇張がなく、ツケ焼き刃がなく、一番身についていた平易な文章によって的確に事象を描いていくその技倆と訓練とは、見上げたものである。所謂芸術派と云はれる人人の間にも、この位身についた技巧をもって、些の危なげなく小説を書いて行ける作家は幾人もあるまい。 (中略)
 恐らく氏のこれ等の作品に現れた庶民階級の生活が、現代日本のさうした階級のあるがままの生活なのであらうと思ふ。かうした生活に対する氏の愛情は、上から見下ろした愛情ではない。かうした作中の人物と手を取り合ひ、同じ苦悶を苦悶してゐる愛情である。 (中略)
 徳永氏はそれだから飽迄政治家としてーよりも作家として庶民階級の作家として終始すべきであるし、その点で氏はその階級の卓越した作家であると共に、又広い日本文学の全野に亘って考へて見ても、現代日本の持つ最もすぐれた芸術的完成を持った作家の一人であるといふ事が出来ると思ふ。

と述べている。当時の代表的文芸評論家にこれほど賞められた作家はあまりいないのではなかろうか。「太陽のない街」以後の作品は駄作ばかりだという評は当たらない。昭和十年代の徳永作品は珠玉の数々である。

   戦後文学の先導者として

 東京空襲の最中、最愛の妻トシオが病没した。直は道代・町子を連れて妻のふるさと登米町の郊外に疎開する。一九四五(昭和二十)年八月十五日敗戦。十一月十五日に新日本文学会創立準備委員会の報を受けると急遽帰京、発起人の一人として参加。新日本文学会の創立大会は暮れも押し迫った十二月三十日神田の教育会館で開かれた。その機関誌『新日本文学』は一九四六(昭和二十一)年三月一日、 宮本百合子の「歌声よおこれ」の題詩とともに徳永直の小説「妻よねむれ」を載せて創刊された。三年間にわたって連載された「妻よねむれ」は、単なる愛妻物語ではなく、戦前、戦中、戦後を鳥瞰する日本庶民史でもあった。短編小説では戦争未亡人を扱った「あぶら照り」や、戦没者遺族の話「にがい唾」など、いずれも庶民の目線で書かれている。また「勤労者文学」についての評論や論争も見られる。戦後は評論家としても活躍したのである。
 大河小説「静かなる山々」第一部は、一九四九(昭和二十四)年十月一日から翌年四月三十日まで、第二部は、一九五四(昭和二十九)年三月一日から十二月十三日まで、共産党の機関誌『アカハタ』に連載された。この作品は「太陽のない街」の戦後版とも云うべき作品で、東芝川岸工場の労働争議が縦糸ではあるが、周辺農村の農民解放運動を横糸とした大仕掛けなもので、朝鮮戦争前夜の歴史的民衆運動の記録でもあった。作者の体調不良で完結に到らなかったのが惜しまれる。
 一九五七(昭和三十二)年八月、胃癌発覚、翌年二月十五日亡くなるのだが、死のぎりぎりまで口述を続け作品制作への執着を示した。遺品として残されたそれらのノートを見るにつけても、文筆に生涯をかけた偉大な人間の存在を感じないではいられない。

肖像写真(昭和4年)

肖像写真(昭和4年)
「太陽のない街」執筆後、33歳の時の徳永直氏。

徳永直氏の文学碑

徳永直氏の文学碑
熊本市黒髪に建立。徳永直氏の命日2月15日に行われる「孟宗忌」の時の写真。



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