熊本県教育委員会 文字を大きく  文字を小さく  色を変える

長野 吉彰 (ながの よしあき)


長野 吉彰

県経済界のリーダー、地下水保全活動に尽力
大正十四年 (一九二五年) 七月三日生
熊本市出身

業績概要

 肥後銀行を九州の有力銀行に築き上げる一方、県経済界のリーダーとして県銀行協会会長、熊本経済同友会代表幹事、九州山口経済連合会副会長、日本経済団体連合会評議員などを歴任し、経済人や行政とともに県勢発展のため、九州財務局の存置や熊本テクノポリス計画の推進など様々な取組みに主導的な役割を果たす。また、九州新幹線建設促進運動、熊本広域都市圏創造会議の中核的役割を担った。また、県教育委員も三期にわたり務め最後の教育委員長時代、県教育改革大綱を残しており、その延長として県内の小、中、高校教諭でつくる熊本教走クラブを創設するなど本県におけるスポーツ界にも貢献。さらに、「ふるさとの質、量ともに日本一の地下水を枯渇と汚染から守ろう」という提唱から「肥後の水資源愛護賞」を創設し、熊本都市圏を中心に水資源の涵養、保全のための節水、水質汚染防止などにつながる実践活動を続けている団体や個人を顕彰する事業をスタート。その後、「(財)肥後の水資源愛護基金」を設立し、これまで県内の二百五十六団体と十三個人の活動を顕彰するなど、今日の地下水に係る官民の取組について先導的な役割を果たし、その礎を築いた。平成十三年からは南阿蘇村の国有林などにクヌギやケヤキなどの苗木の植樹事業を始め、平成十八年には、肥後銀行が阿蘇大観峰の麓に「阿蘇大観の森」と命名された五十二ヘクタールに及ぶ涵養林を購入するまでになった。これまで三万本以上、「阿蘇大観の森」での植樹も二万五千本に及び、水資源の涵養に努めている。これらの先導的で地道な実践活動が評価され、環境大臣表彰、総理大臣賞、日本水大賞審査部会特別賞など数々の賞を受賞。


昭和五十九年 株式会社肥後銀行取締役頭取、社団法人熊本県銀行協会会長、熊本経済同友会代表幹事就任
平成元年    社団法人九州山口経済連合会副会長就任 藍綬褒章受賞、秩父宮章受賞
平成五年    株式会社肥後銀行取締役会長就任
平成十一年  熊本市政特別功労者表彰を受賞
平成十三年  株式会社肥後銀行会長退任、常任顧問委嘱
平成十七年  「ふるさとづくり賞」の内閣総理大臣賞を受賞
平成十八年  「地域環境保全功労者」環境大臣表彰、「緑化推進運動功労者」内閣総理大臣表彰
平成十九年  「日本水大賞 審査部会特別賞」を受賞

長野吉彰氏  ―生涯現役―

                                沢 田 一 精


 熊本日日新聞社のシリーズ「私を語る」に連載し、長野吉彰氏は、平成六年十一月「生涯稽古」という本を出している。その標題にちなんで、私は「生涯現役」という言葉を彼に贈りたい。熊本県経済界の長老として、今も活躍するほか、教育界そしてスポーツ界の指導者として多大の貢献をする一方、近くは水問題を中心として環境保全に力を尽くす。それも多年にわたるスポーツの実践によって障害者となり、その不自由な身でありながら、不屈の闘志と、燃える情熱によって日々努力を続けられる姿に、心から敬意を贈るものである。

   その生い立ちから大学卒業まで

 大正十四年七月、吉彰氏は、玉名郡弥富村亀甲(現玉名市)で父簡悟氏、母千鶴子さんの三男として生まれた。父は高瀬製糸の経営者であった。もともと長野家は本県における農蚕、製糸の始祖であり、吉彰氏は幼少の頃からとくに賢夫人と言われた母千鶴子さんの手厚い薫陶を受けて育った。
 やがて、父が熊本製糸にかかわることになり、熊本に引っ越し、白川小学校に入る。そして熊本中学、第五高等学校、九州大学経済学部と進む。そして大学時代、昭和二十年六月から、終戦までの約二ヶ月間ではあるが、熊本の西部第二十四部隊での貴重な軍隊生活があった。そしてその後、やはり学生時代に、多嘉子夫人と結ばれることとなる。 さて、私はここで往時をしのびながら、二つのことを述べることとする。
 その一つは、私は学徒動員で出征し、生きながらえて帰り、両親が疎開をしていた私の郷里八代郡吉野村に住んでいたのであるが、時々長野氏が訪れていた。彼は熊中で私の四年後輩であり、多嘉子さんは、当時新屋敷にあった「みどり幼稚園」で私の妻の一年後輩という縁があったのである。彼が訪ねて来てくれた時は、田舎の家で、戦後の我が国の行く末等について、いつまでも語り合った。
 次に、どうしても書いておきたいことは、彼の両親、簡悟さんと千鶴子さんから当時新婚早々であった私達夫婦が、我が子のように可愛がられたことである。毎年御両親が年越しをされる立願寺温泉の紅葉館に、私共を招いて頂いた。 御両親と私共二人、同じ部屋で年越しそばを食べ、新年の屠蘇をいただいたこと、実に六十年前の思い出を、今も忘れることはない。

   肥後銀行、銀行マンとして

 長野吉彰氏、彼の生涯の本業は、あくまで銀行マンである。
 昭和二十六年四月、肥後銀行に入社以来、順調に幾多の要職を重ね、多大の成果をあげて、遂に昭和五十九年四月、代表取締役頭取に就任するまで、更に平成五年一月会長に就任、更に平成十三年同行の常任顧問に就任、現在に至る実に六十年余りにわたり、着実で、実に赫々たる足跡を残してこられたことは、ただ感嘆のほかはない。
 今でも彼はしみじみと語っているが、それは、肥後銀行入行式で、当時の川田栄三頭取が、「人一倍働く。という言葉があるが、それを続けることは中々容易ではない。より大切なことは、毎日毎日ほんの少しだけ他人より深く考え、わずかでも多く働き続けることが肝要だ。」ということを言われたが、その教えを事ある毎に思い出し、守り続け、懸命に働き、今日の肥後銀行の基本を創り上げてきた。
 勿論一人ではどうにもならず、良き同僚と良き部下に恵まれたことが幸いであったが、副頭取時代から頭取時代、初期のバブルの発生とその崩壊時代には、バブル融資を厳しく慎み、不良債権の発生防止に全力をあげた。また、常に、長野氏の持論は「企業は先ず本業の分野に徹すること、拡げるなら必ず本業に関係する分野に限る。」ということをモットーとしていた。御陰で今日、全国地銀の中でもっとも優れた資産内容と、自己資本比率の高さは上位で、国内外の格付け機関からいずれも高い評価を受けている。

   公共に尽くした実蹟

 長野氏は、銀行業務以外で県経済界のリーダーであり続けた。熊本経済同友会代表幹事、九州山口経済連合会副会長等を永年にわたり務めた。その間における特筆すべき事柄を二、三述べたいと思う。

   九州財務局存続
 
 戦前の熊本市は九州の中枢行政管理都市であったが、戦後、経済成長に関わる通産、建設、運輸など各省の出先がことごとく福岡市に取って代わられつつある最中、大蔵省の出先である九州財務局はなんとしても熊本に引き留めたいと考え、県、市、財務局一体となり、彼は経済界のリーダーとして頑張り、無事福岡を押さえて存置に成功した。思えば、この存置が、熊本が福岡に勝負して勝った最後であり、その後はいろいろの面で大きく遅れをとったことは極めて残念である。

   県経済の発展に貢献 その一

 昭和五十八年半ば、県からテクノポリス建設の母体である熊本テクノポリス財団及びテクノポリス技術開発基金への協力要請があった。しかし、地場関連企業からの出捐は中々容易ではなかったのであるが、彼の熱心な努力の結果、翌五十九年頭取就任時にはその出捐金は二十億円を超え、後年においては実に二十四億円にも至り、熊本市を母都市として、菊池郡市、玉名郡市、宇城郡市等、優秀な工場進出が相次ぎ、このテクノポリス建設が、県経済界の発展に大きく寄与していることは、喜ばしい限りである。

   県経済の発展のために その二

 九州新幹線の建設は、県民の一大悲願であり、県の浮揚のため最大の懸案であり、平成五年一月、県民運動本部が発足、長野氏はその代表世話人となり、五月には一万人による県民総決起大会、六月には九州四県合同の東京総決起大会等を主催した。彼はスポーツ障害の体をおして幾度となく陳情のため上京し、また、決起大会の壇上に立つ姿を、当時私は参議院議員であったので、感動をもって見守っていたことを思い出す。
 その新幹線開業もやっと目睫の間に迫ってきたが、このことが県の大きな浮揚になることを期待している。

   県経済の発展のために その三

 二十一世紀に向けての熊本都市圏の発展のためには、「官」、「産」、「学」一体で働く知的共同事務所がどうしても必要だということで、熊本開発研究センターがつくられ、長野氏がその理事長となり活躍したが、この組織は昨年まで続き、県勢の発展に大いに寄与した。また、一九九四年には「熊本広域都市圏創造会議」が発足し、長野氏がその座長となり、開発研究センターと相まって、熊本駅周辺や熊本市中心市街地などの再開発問題や交通網の整備などの基本方針の策定にあたった。

   県教育の振興のために

 長野氏は、昭和四十七年から二期、県教育委員となる。
 その当時の思いは、「健全な身体」と「健全な家庭教育」ということであった。そのことに向かって懸命に努力したが、当時の委員会の議論は対組合問題と進学力向上が主であり、残念ながらその主張が十分には反映しなかった。 更にその後、平成十一年には熊本県教育委員長を拝命し、翌十二年からの熊本県教育会議では、平成十四年三月の最終回まで、熊本県教育改革大綱の具体化のための座長を務めた。この大綱は、学校が時代の変化や様々な教育課題に的確に対応し、自らの判断と責任で、学校や地域の特色を生かした教育を展開できるように、基本的な方向性を示すものとなっている。
 また、長野氏は、とりわけ家庭教育に一家言を有し、子供は「自らの生きざまで導く」という信念のもとに、父親がじっくりと考えたり、物を読んでいる姿とか、何かを真剣に書いている姿とかを子供達に自然に見せることが、家庭教育の基本だと説いているが、彼の教育の刷新充実にかける思いは強い。

   県のスポーツ振興のために

 昭和五十三年、県内の小、中、高校教諭でつくる熊本教走クラブを創設した。
 当時、九州一周駅伝競走で、いつも熊本は六、七位に低迷しているため、毎年教員として採用される優秀な長距離ランナーが、まとまって練習する場を提供するというのがその発想の原点であり、これは旧制五高時代陸上部の主将として活躍、以来、熊本陸協の役員を務めてきた長野氏の熱意によるものであった。
 翌昭和五十四年には、熊本市陸上競技協会会長に就任している。
 平成十八年からは、優れた陸上選手や指導者を讃える「長野賞」を創設。現在に至っている。
 十五人のランナーが集まってスタートした熊本教走クラブも、三十年目の現在、会員数は百四十人を超えており、そしてこれを中核として、今も陸上選手の育成に努めている。
 思えば、教走クラブ発足の前、九州一周駅伝の監督として、八木繁尚体協会長と共に、ジープに乗っていた時代、二巡目の国体を間近にして、全国ナンバーワンの成績のリレーチームが誕生し喜んだこと、思い出はさまざまであり、長野氏の陸上競技にかける思いは今も消えることはない。

   柔道の発展

 幼い頃、あまり丈夫な身体ではなかったが、人一倍の負けず嫌いと、頑張り屋で次第に頭角をあらわし、五高時代には陸上部の主将となり、銀行に入ってからも只管柔道に励んだ。生来硬い体を過酷に鍛えたために、副頭取に就任した昭和五十五年頃から、スポーツ障害の身となった。
 それでも柔道にかける思いは強く、柔道選手。就中女子柔道選手の育成に情熱を注いだ。その結果、銀行柔道部が全国金融団柔道で初優勝を遂げ、長野氏自身、県実業団柔道連盟会長に就任した。
 この様に特に、女子柔道部の育成強化に努め、平成十一年開催の「くまもと未来国体」において三人のうち二人の肥後銀行女子行員の活躍で成年女子優勝を勝ち取ることができた。
   なぎなたの振興

 平成六年、女子柔道部の創設と期を同じくして肥後銀行なぎなた部が創設され、その育成強化にも努めた。
 その結果、平成八年「広島国体」で成年女子三位入賞を皮切りに、次第に頭角をあらわし、平成十一年の「くまもと未来国体」更に十四年の「高知国体」、そして、十五年の「静岡国体」において成年女子なぎなた競技で見事連覇を達成した。

 以上、いろいろの面における長野氏の深い情熱とたゆまぬ努力が、本県のスポーツ振興のために、どれほど役立っているかを感ぜざるを得ない。

   環境保全への取り組み
    水資源愛護賞の創設

 長野氏が郷土熊本の水を子々孫々に残さなければならないと、深い思い入れを抱くに至ったのは、昭和三十五年、水俣病の悲惨さを活写した水上勉氏の作品「海の牙」との出会いがその発端であったようだ。
 次いで翌三十六年、東京支店長代理として赴任した際、清流のイメージを抱いていた隅田川の汚濁と汚臭に、強烈なショックを受けたことであった。更に四十年代初め、長崎支店長として赴任した際、上水道の供給が、二日間に僅か三時間という大渇水の強烈な体験からして、いよいよ故郷の水のありがたさを実感したものであった。
 このような体験の後、久方ぶりに訪れた水前寺公園の池の水位が異常に低下し、鯉の群れがあえいでいる姿に、未来への底知れぬ不安を深刻に思った。
 そこで、質、量共に日本一の熊本の地下水を永久に守るために、肥後銀行第八代頭取であった昭和六十二年、熊本日日新聞社と相計り「肥後の水資源愛護賞」を創設した。
 それは、水資源の涵養、保全、節水、汚染防止などに努めている個人や団体を表彰するのが目的で、今日まで二十一年間で実に二百四十八団体、十二個人を顕彰してきた。このことは確かに相当な効果があったものと確信している。 さらに、 この事業の永続性と安定性を願って、平成四年九月、「財団法人肥後の水資源愛護基金」を創設したが、基本財産として、肥後銀行とその関連会社等で出捐金二億三千万円となっている。
 ここで、特に付言したいことは、平成七年同氏は、日本銀行政策委員就任の要請を受けたが、その時の条件が、肥後銀行の役職は勿論、地域の公益活動、勿論地元の水資源愛護事業等一切をやめるという要請であったので、残念ながら丁重にお辞りするということもあった。

   阿蘇大観の森の購入

 最近における地球温暖化の影響で、水資源涵養林の必要性、それに加えて CO2 吸収のための植樹、緑化事業が必要と考え、水資源愛護基金を活用し、平成十三年から水の涵養林育成のため、西原村や菊池郡内で毎年植樹を実施している。その樹木の数も年々増加し、平成十八年には、阿蘇大観峰の麓に「阿蘇大観の森」と命名した五十二ヘクタールの涵養林を購入するまでになった。そして、すでにこの森の植樹は二万五千本に及んでいるが、長野氏は、「愛護賞」創設二十周年記念式典の席上で、今後十年間で、十五万本の植樹をすると宣言した。
 地球環境の破壊が進み、環境問題が深刻になりつつある現在、すでに二十余年前から、一途に「肥後の水資源愛護」を提唱し続け、その実践にたゆまず努力してきた氏の姿勢に心からの敬意を贈りたい。

   長野吉彰氏と私

 長野簡悟、千鶴子、長野吉彰氏の御両親からしてみれば、先にも書いたように、私は四歳年上の兄貴のように思われていたし、また彼自身との交遊は、終戦後間もない頃、今から実に六十余年も前からのことであり、誠に感慨深いものがある。
 勿論、彼の本業は肥後銀行業務であり、これについては、私はほとんどあづかり知らぬ所であるが、ただ先にも述べたとおり、今や肥後銀行は地銀の雄として、最も安定した発展を続けていること、このことについては彼の功績が大であったと、密かに尊敬している。
 その他の彼の業績について、ほとんど私の思いと一致していることを改めて知った。
 即ち、公共的な業績では、九州財務局の熊本存置、九州新幹線の問題、新産業都市建設やテクノポリスの展開等々、私自身が県庁に奉職して以来六十年、県政の発展一途に努力して来たが、その主要な面で、いつも彼が一所懸命応援してくれていたということを、改めて強く感じている。
 次に、教育の振興についてであるが、私が知事に就任してすぐ、彼を教育委員に就任してもらい、相共に県教育の充実発展を願ったのであるが、特に私は県下の高校進学率向上のために主として僻地に、十数校余りの高校を新設し、また県下の私立校に、どこよりも多額の県費助成をして、教育の充実刷新に努めたのであるが、彼はよく私の意図にそい、本県教育のために尽くしてくれた。
 次に、私はスポーツの振興をも県政の重点とし、県立武道館の建設をはじめ、体育館や運動公園の建設、整備、各種学校の運動場の夜間照明の整備等々、彼の進言によるところ誠に多大であり、これによって本県の健全なスポーツ振興に、どれほど大きく寄与したことかと思っている。
 彼は、永い間、各種の駅伝競走の現場に必ず出席し、その姿を見ては、彼のスポーツにかける熱意を思わずにはおれなかった。
 環境の保全、特に水の問題についても、彼の努力はめざましく、私もまた美しい熊本づくりを、かつて提唱した者として、実に頼もしく思っている。主要道路に花を植え、阿蘇に野草園を、御船に鳥獣保護センターをつくり、飛行場周辺をはじめ、主要道路沿線には屋外広告物の設置を規制し、江津湖や水前寺界隈の地下水の無謀な汲み上げを規制する等の方策をとってきた私としては、彼が永年にわたり、熊本の水を守る運動を、先頭に立って推進していること、地球温暖化が叫ばれており、環境の保護が人類の大きな課題である現在、その実践とたゆまぬ行動は、誠にすばらしいと言わざるを得ない。
 思えば、終戦直後、県庁に奉職し、今年すでに米寿を迎えるまで、私の生涯は、ただひたすら郷土熊本の発展、県政の発展を願う一生であったと想う。長野吉彰氏の思いも、まさに私と全く同じ想いではなかったか。彼が多岐にわたる県政上の重要課題に、常に関心を持ち、深く関わってきたこと、そして常に大きな貢献をしてくれてきたことに、今心から深く感謝いたすものである。私の知事在職時代、折に触れて適切な助言をしてくれたことを、今思い出している。
 長野吉彰氏と私、私と彼とは、郷土の安定と発展を心から常に願ってきた同志であり、戦後の復興期から、幾多の時代の変遷の中で、ただひたすら郷土のために戦い続けてきた戦友であると思う。
 私がかつて、極めて印象深く記憶していることの一つは、ある雑誌の対談の中で、物書きの城山三郎さんの言葉、それは次のようなことであった。
 「肥後銀行会長の長野吉彰さんという人にあったのですが、長野さんは頭取になったとき、大きい頭取社宅に入らず、二十七坪の応接間も無い自宅に住み続けた。御用は銀行の応接間でと、公私を厳格に区別した。バブルの異常な時期、それは非常によかった。」と言っておられた。そういう孤独な強さが、リーダーたるもの当然必要だということを教えていただいた。
 最後に、今日まで彼を支えてこられた御家族、特に六十有余年常に良き伴侶として支えてこられた多嘉子夫人の存在は、実に大きいと思うし、また、彼には一男一女の子供さんがあるが、御令息は、父上と同様、スポーツマンであり、また、銀行員として、富士銀行から、今はみずほ銀行の幹部として御活躍中であり、一人の御令嬢は、今肥後銀行副頭取夫人であり、御一家まさに何一つ後顧の憂いがないことは、羨ましい限りである。
 長野吉彰氏が、藍綬褒章を受けられたのは、実に二十年も前のことであり、それから数々の表彰や栄誉に輝いてこられたが、不幸にして、数年前、スポーツにあまりに熱中したせいで、不自由な障害者となられたことは、極めて残念である。
 しかしながら、彼は、その旺盛な闘志と、たゆまぬ努力、それに旺盛な郷土愛によって、今もなお広く社会のために尽くし続けていることは、まことに敬服にたえない。願わくば、今後一層御元気で、いろいろな面で、貴重な先達として、広く教導されんことを、心から祈念して、擱筆する。

九州新幹線早期着工への一万人県民総決起大会(平成5年5月)

九州新幹線早期着工への一万人県民総決起大会(平成5年5月)
九州新幹線の早期着工を熱く訴える長野吉彰氏。(写真中央)

肥後の水資源愛護基金シンポジウム・愛護賞表彰式

肥後の水資源愛護基金シンポジウム・愛護賞表彰式
肥後の水資源愛護賞表彰式の模様。功績があった団体や個人へ表彰状を授与する長野吉彰氏。(写真左)



新規ウィンドウマークこのマークの付いたリンクは新しいウィンドウが開きます。
PDF形式のデータをご覧になるためには、Adobe Readerが必要です。
お持ちでない方は、右のアイコンをクリックしてダウンロードしてください。(無料)

このホームページで使用されている画像およびテキストを、無断で転載することを禁じます。

Copyright (c) Kumamoto Prefectural Board of Education All right reserved.