熊本県教育委員会 文字を大きく  文字を小さく  色を変える

干拓関連施設(八代市、千丁町、鏡町)


近代化遺産としての干拓施設

八代周辺の干拓配置図

 不知火海に面した八代外港近くの大島石油基地付近から東側を眺めると、彦一ばなしにも登場する竜峰山とそれに連なる山々が見えます。山裾から手前には、数キロに及ぶ広大な耕地が広がっており、全国一の生産量を誇るイグサが見渡すばかりに作付けされています。初めてここを訪れる人は容易には信じがたいと思いますが、これら八代地方の平野のほとんどは、近世以降の干拓により人工的に作り出された土地です。平野部に点在する小高い山は、いずれも干拓以前には海中の「孤島」であったものが、人々の連綿たる努力によりいつしか陸続きになったもので、まさに想像を絶する作業の賜物と言えると思います。(右配置図)

築造の時期
  1〜 9 1600年代 
 10〜31 1700年代
 32〜63 1800年代〜明治維新
 64〜71 明治以降
「八代周辺の干拓配置図」
「熊本県大百科事典」1982.熊本日日新聞社刊より



さて、近年、新しい概念の文化財として注目を集めているものに、「近代化遺産」があります。我が国の近代化を支えた、建造後五十年を経過した施設等が対象となるものですが、農業県熊本を支えた本県の近代化遺産の目玉が、今回紹介する干拓関連の樋門等の施設です。

干拓の構造

 近世の肥後では、干拓による新田開発が盛んに行われました。過去300年間に創出された干拓の面積は、約24000町歩であり、これは県下の水田の総面積のおよそ三分の一に相当する膨大なもので、遠浅の干潟に恵まれた横島町周辺の有明海、及び不知火海に面した八代地方に主に分布しています。


 初期の干拓は、自然陸化した干潟を堤防で囲む比較的簡単なものでしが、干拓が進んだ江戸後期以降は、先進の技術により海抜0m以下、つまり満潮時は水没してしまう地点さえ、次々に干拓の対象となりました。


 干拓工事は干潮時の作業であり、予定地の干潟の周囲を徐々に堤防で取り囲み、樋門も同時に築いていきます。長期にわたる作業の後、最後に残された一カ所になると、タイミングをはかって、集められる限りの人員と資材を集中して一気に塞いでしまいます。これが潮留めと言われる干拓工事のクライマックスであり、今でも多くの干拓地では、それぞれの土地の潮留めを記念した催しが行われています。


 これら干拓工事は、近隣の山からの工事用の竹木の伐採や、石積み用の石の切り出し、築堤作業など数多くの人々が長期にわたって関わる大変な作業でした。八代郡鏡町周辺で歌い継がれている「大鞘名所」と呼ばれる民謡では、「名所名所と大鞘が名所 名所ナ 大鞘 名所にゃ水がない」という歌い出しで、干拓工事に携わる人々の様子を生き生きと表現しています。

今に残る近世〜近代の干拓関係施設

 ところで、干拓の構造物の要と言えるものが樋門です。樋門には海へと向かって開く扉(戸)が取り付けられ、満潮時には海水の進入を防ぎ、反対に干潮時には内陸の水を排水する役割を持っています。工事が終わり、干拓地が耕地へと変わっても、干満のたびごとに水門の戸がうまく機能しているか、常に細心の注意を要する施設であるということができます。

写真1
写真2

 干拓が沖合に進むにつれ、過去の堤防は不要となるため、その多くは姿を消し、道路などに転用されています。ただし、樋門に関してはその後も機能を維持して補助的に残されることが多く、現在でもこのうちのいくつかを見ることができます。


 まず、江戸時代の干拓の施設として残るのが、八代郡鏡町と同千丁町のちょうど境界付近に位置する大鞘樋門です。(※写真1、2)これは、文政2(1805)年に竣工した400町新地の造成の折りに、備前から導入された最新の技術により築かれたものです。2300間の堤防とともに、五基の樋門が築かれましたが、現在はこのうち三つの樋門が残されています。巨大な切石で組まれた門や、側壁の布積みの精巧な石組みは、当時の高い技術水準を示しており、見るものを圧倒します。なお、先の「大鞘名所」の民謡は、干拓の際の労働歌として、この大鞘樋門の周辺で今なお歌い継がれているものです。

写真3

 次に、八代地方最大の干拓地として明治37(1904)年に八代郡により造成されたのが郡築干拓です。明治32(1899)年に着工、途中堤防の大半が台風で破壊されるなどの困難を克服して竣工し、1063ヘクタールの耕地をもたらしました。その造成当初の施設として郡築三番町樋門があります。明治33(1900)年の築造で、当時熊本県技師で後五高教授となった川口虎雄による設計です。幅30・5mの石造10連式のアーチ構造で、特にアーチ部分には赤煉瓦を使用するなど、明治期のモダンなデザインを彷彿とさせる全国的にも珍しい構造物です。(※写真3)

写真4

 郡築二番町樋門は、昭和11年の高潮被害により、従来の樋門が破壊されたため、昭和13(1938)年に代替として新設されたものです。幅約13mの石造三連式のアーチであり、波受け隔壁とも残っており、残存状況がよいものです(※写真4)。なお、これら郡築干拓の二つの樋門は、近代の土木遺産として、平成10年にいずれも国の登録有形文化財となっています。

生きた文化財

 「台風の日には、また塘(堤防)が切れるのではないかと気が気ではなかった。」とは、干拓地に生きた人々の共通の記憶です。人々は昭和二年の潮害を始めとして、数え切れないほどの堤防決壊や耕地の浸水など大きな被害を乗り越えてきました。高潮が堤防を超えると補強を繰返し、更に最高潮位から一尺また一尺と堤防を嵩上げするなど、自然とのぎりぎりのせめぎ合いを続けてきたのです。


 文化財にも様々なものがあります。贅を尽くした建造物や美術工芸品も見事なものですが、他方、こうした質朴な干拓関連施設は、まさに自然と闘った私たちの祖先の汗の結晶であり、その生きざまを我々に教えてくれる生きた文化財ということができるのではないでしょうか。


※紙数の都合により、本稿では、不知火海の干拓を中心に御紹介しましたが、熊本県では、玉名郡横島町を中心とした有明海周辺にも、数多くの施設を見ることができます。


※参考
九州財務局広報誌「九州ざいむ」 NO.86掲載文を転載
隠れた名所・旧所
熊本の近代化遺産 干拓関連施設  熊本県教育庁文化課

新規ウィンドウマークこのマークの付いたリンクは新しいウィンドウが開きます。
PDF形式のデータをご覧になるためには、Adobe Readerが必要です。
お持ちでない方は、右のアイコンをクリックしてダウンロードしてください。(無料)

このホームページで使用されている画像およびテキストを、無断で転載することを禁じます。

Copyright (c) Kumamoto Prefectural Board of Education All right reserved.